訳がないが、実はいよいよたいへんなことが始まったぞというので、僕の胆玉は上がったり下ったりして、現場を逃げだそうかどうしようかと思案に暮れていたときなので、その辺はハッキリ覚えていないのである。只、あれが生きている人間だったら、さぞ痛いことだろうと思ったことである。
それから医師は、ピンセットの尖で、全身に渡って皮膚を軽くおさえながら、熱心に観察をした。目の孔も調べたようだ。
それがすむと、傍に向って、手をあげた。すると白衣の助手が、屍体の向う側に廻って、腕と脚とをつかんで横向きにした。いや、横向きではない。とうとう背中を上に向けた。すると少年の顔が横に傾いた。白い手術台の上に、薄赤い液体がトロトロと流れだした。それは屍体の口と鼻のなかから流れだしたものだと分った。なんともいえない臭気がプーンと漂ってきた。
医師は、背中を一応しらべた。それから後頭部にある打撲傷のような血の滲《にじ》みが見えるところに眼を近づけた。
それから屍体は、また元のように上に向け直された。そして今度は頭の下に、枕があてがわれた。
ピンセットが下に置かれた、医師の右手に大きなメスが握られた。――いよいよ始まるのである。僕の心臓は停りそうになった。
しかし解剖医は逡巡《しゅんじゅん》も興奮をも示さず、きわめて自然にメスをあげて、屍体の右の耳の上に当てた。そしてそのまま、頭の上の方へスーッと引いた。なおも力を抜かず、そこから向う側にメスを廻して、左の耳の上までスーッと一と息に引いた。五厘刈の下から、白い筋が見えてきた。頭骨が現れたのである。こうして耳から上が、縦に立ち切られたのであった。
医師はそこでメスを置いた。そして、頭部の皮の裂け目に手をかけて、蟇口《がまぐち》をあけるようにサッと前後へ剥《は》がした。その下から、白い頭蓋骨が、まるで彩色をしてない白い泥人形の頭のようにまるまると現れてきた。とたんに僕は気が強くなった。
メスをさっと下ろした瞬間、僕は非常に厳粛な気持になったのである。なるほど、人間というものは実に悧巧なものである。よくこういう医科学を研究したものだと思った。そして二三ミリもある頭の皮がサッと二つに分かれても、もう恐ろしくはなかった。まるで屍体の感じがしなくて、人形のような感じがした。さっきアリアリと僕の心を打った少年の顔かたちが今は俄かに印象が淡くなった。第一
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