の中に漬っていたのだそうで、時間も三十時間ぐらいしか経ってないということだった。
僕はこの解剖の終了するまでのうち、一番気もちわるく感じたのは、この解剖前の屍体を見ているときだった。それはどういうわけだか分らない。とにかく遠くの方から、脳貧血という魔物が、しのび足に寄って来て、すぐ背後のところでニヤニヤと笑っているような感じだった。いつぶっ倒れるかしれないといった不安が、僕を脅かした。このまま室を出ていった方が恥を曝《さら》さないですむぜ、と囁く声が聞えるようであった。
でも、折角《せっかく》ここまで怺《こら》えたのである。しかも僕とても、将来このような人体を対象として研究をつづけなければならぬ職をもつ身ではないか。そう思うと、このまま出てゆくことが躊躇せられるのであった。
「いよいよいけなくなったら、この階段に横にゴロリと寝てしまおう」
僕はそう思った。
そうこうしているうちに、警察医はもうすっかり身仕度をととのえた。襯衣《シャツ》を肘の上までまくり上げ、手には長いゴム手袋をはめ、その上にまたもう一つ、白い絹らしい布で出来た手袋をはめていた。そして胸には、白い手術着をつけた。それだけであった。病人の手術とは違って、それは実に簡単な服装だった。
それから警察医は、大きな鞄の口をあけた。中からは、果して解剖器具の入った大きな銀色の函を取り出した。蓋を払ってから、彼は中からメスを何本かと、その外なにかよく分らないが、ピカピカ光るいろいろの器具や、糸などを取出し、それを屍体が載っている解剖台の上に置いた。ガチャガチャと金属製の器具がすれ合う音を聞いていると、いよいよいけなかった。もしあの少年が仮死であって、医師が執刀すると同時に、キャーッとか叫んで立ちあがったとしたら、どうだろう。そう思った瞬間、僕の身体の重心が、どこか身体の外に移ってゆくような気がした。
医師はピカピカ光る解剖の器械をことごとく揃えた。彼は立ち直って、解剖の屍体に近づいた。室内は俄かにザワついた。
医師はピンセットの大きいのを右手にもって、屍体の顔をジッと見た。それから屍体の瞼をピンセットの尖《さき》でつまみ、皮をクルリと上にまくって、眼球をしらべた。右の眼も、左の眼もそうした。
それから同じくピンセットを使って、鼻孔や口の中を調べていた――ように記憶する。記憶するというのは、ちょっと申
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