から、この車を鳥渡《ちょっと》拝借《はいしゃく》したい」と中国人は丁寧に、だが圧《お》しつけるような口の利き方をした。
「失礼な! お断りします」夫人は負けてはいなかった。
「どうかお許し下さい、劉夫人、病人は唯今手当をしませんと、手遅れになりますから」
劉夫人と名をさされて、夫人の態度がちょっとかわった。
「お前はだれだい。病人は何処《どこ》の人だい」夫人が、俄《にわ》かに伝法《でんぽう》な言葉を吐いた。
「やんごとないお方でございます。私は現場から、電話をうけとったものです。おお、御病人の担架《たんか》が見えました」
なるほど、いつの間にか、十名ばかりの中国人や西洋人が一つの担架を守って、車外にかたまっていた。だが彼等の誰もが、自動車の存在などに気がつかないかのように、顔をそむけていた。僕は、夫人が、その負傷者に充分心を引かれているのを見抜いたので、別れるのは今だと思った。しずかに挨拶《あいさつ》すると、夫人は気の毒そうな顔をして、
「明日は是非おいで下さい」
「もし命がございましたら」そう言って僕は大胆に夫人の頸《くび》を抱えてその唇を求めた。そのとき僕の右手は、夫人の左の手首から三センチメートルばかり上を握りしめた。氷のようにつめたい痩せた手首だった。しかし象牙のようになめらかな手ざわりだった。その手ざわりをなつかしんでいると見せて、その部分に施《ほどこ》されている隠し文身《いれずみ》を、指先の触覚だけで読みとることを忘れなかった。いや、そればかりではない。あと十二分すれば、極めて正確に夫人の身体に、ちょいとした変化が起るような薬品をその皮膚にすりこむことにも美事《みごと》成功したのであった。
僕が下りると、顔中に繃帯《ほうたい》をした男が、自動車の中に担《かつ》ぎこまれた。四十をいくつか過ぎたと思われる長身の西洋人だった。
「今は何時になるか?」
その声音《こわね》は、重症の病人とは思われないほど元気に響いた。
「五時三十五分です、閣下《かっか》」
さっきの中国人が粛然《しゅくぜん》として答えた。
「時間を間違えるな。すべていつもの通りにやってくれるんだぞ」
「畏《かしこま》りました」
閣下と呼ばれたその重症者の声音《こわね》は、たしかに聞き覚えのあるものであった。が、それが誰だか、直ぐには考え出せそうもない。自動車は夫人と、その閣下と呼ばれる
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