はなかったようである。なぜならば、後《のち》にこのときのことをもう一度はっきり思いださねばならぬような恐ろしい事件が起ったのであるから。正太は、マリ子のとめるのもきかないで、そののちも、あきもせずに今日一日だけはとか、もう一日だけはなどといいながら、それでも四五日もイワノフ博士のところへ通ったであろうか。
 兄妹の父親も、このことをきいて心配しないでもなかったけれど、まさか後に起ったような大事件になるとは気がつかず、まあいい加減にしておいたのであった。正太が、最後にイワノフ博士を訪ねたのは兄妹がいよいよ日本へ帰るについて、汽船にのりこもうという日の前日のことであった。が、その日家中が出発の準備のため、荷造りやなにやかやでごったがえしの忙《いそが》しさの中にあるのにもかかわらず、正太は夜に入って、家へ帰ってきた。そして、
「僕、今日はなんだかたいへん睡《ねむ》いから、先へ寝かせてもらうよ」
 といって、ひとり先へ寝床へもぐりこんでしまった。


   航海中の出来事


 やかましい検査のあった後で、ようやく汽船ウラル丸は、ウラジオ港を出航した。
「ああ、お父さま。さよなら、さよなら」と、マリ子は舷側《げんそく》から、白いハンカチーフをふって埠頭《ふとう》まで見送りにきてくれた父親にしばしの別れを惜しむのであった。
「さよなら、さよなら」正太も声をはりあげている。
 やがて、父親の姿もだんだん小さくなり、埠頭も玩具《おもちゃ》のように縮《ちぢ》まり、ウラジオの山々だけがいつまでも煙のむこうに姿を見せていた。それでも兄妹は、まだ甲板《かんぱん》を立ち去ろうとはしなかった。このときマリ子は、兄の正太が最後にイワノフ博士邸から帰ってきたとき、たいへん気分がわるそうだったことをふと思いだしたので、
「ねえ、兄ちゃん。あれは一体どうしたの」
 と、たずねた。正太は、とつぜんの妹の問いに、はっとおどろいたようであったが、あたりを憚《はばか》るように声をひそめ、
「うん、マリちゃん。あの日ばかりは、さすがの僕も後悔したよ。つまりイワノフ博士の人造人間《じんぞうにんげん》エフ氏の実験をたいへん長いこと見せてくれたんだが、あの日は、人造人間エフ氏の身体と僕の身体との間になんだか怪しい火花をぱちぱちとばせてさ、急に目まいがして、しばらくなんだか気がぼーっとしてしまったんだよ」
「まあ、ひ
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