ない。博士自身が作ったものなら、遺書も書かずに死ぬというのは可笑《おか》しい。幽霊に追われたとしても、自分の作ったものなら、そこへ逃げ込むのも可笑しいし、第一ドンデン返しにならんように鍵でも懸けて置きそうなものじゃないか。だから君だけ知っていて、博士を脅《おびや》かして墜落させたものに違いない」
「署長さん、それは貴下の臆測《おくそく》ですよ」と青谷はアッサリ突き離した。「ちっとも証拠がないじゃありませんか。それに当時私は貴下の側にいました。それでいて、墜落させたり、幽霊を出したり、そんな器用なことができますものか」
「ウン、まだそんなことを云うか。……夫人殺害のことでも、君のやったことはよく判っているぞ。君はあの夜八時に帰ったということだが、それは確かとしても、工場の門は一度六時に出ているじゃないか。わしが知るまいと思ってもこれは門衛が証明している。そうしたと思ったら、忘れ物をしたというので、七時半ごろ再びトラックに乗って引返してきた。そしてまた八時ごろになって、本当に帰ってしまった。君が引返してきたときには、工場の中には自室で読書に夢中の博士と、別館には婦人が居ることだけで外に誰も居ないと知っていたのだ。そして約三十分の間に、実に器用な夫人殺害と、屍体の空中|散華《さんげ》とをやって、八時頃なに食わぬ顔で帰ったのだ。どうだ恐《おそ》れ入ったか!」
「それはこじつけです。私はそんなことをしません」
「夫人を殺害しないと云っても、それを証明することができんじゃないか。君に味方するものはおらん」
「そんなに云うなら、私は云いたいことがあります。これは貴下の恥になると思って云わなかったことですが……」
「ナニ恥とは何だ」署長は眼の色を変えた。
「恥に違いありませんよ。貴下方はあの晩湖水の上空から撒かれた人間灰が、珠江夫人のだと思いこんでいるようですが、それは大間違いですよ。湖畔で採取した人肉の血型《けっけい》検査によるとO型だったというじゃありませんか。しかし夫人の血型はAB型です。これは先年夫人が大病のとき、輸血の必要があって医者が調べて行った結果です。O型とAB型――一人の人間が同時に二つの血型を持つことは絶対に出来ません。人肉の主と夫人とは全く別人です。貴下はこんな杜撰《ずさん》な捜索をしていながら、なぜ僕を夫人殺しなどとハッキリ呼ぶのですか」
「ウム。――」
署長はその瞬間フラフラと、脳貧血に陥《おちい》りそうになった。実は血型なんてハイカラなものは考えたことがなかった。今となってこんな痛いところを突かれるなんてあるだろうか。彼の威信はこの瞬間地に墜ちた。
「どうです署長さん」なおも青谷は苛責《かしゃく》の手を緩《ゆる》めなかった。「僕はそのことだけでも無罪の筈です。僕を苦しめてどうなるのです。それより、なぜあの血まみれの容疑者を責めないのです。あんな怪《あや》しい奴をなぜ……」
そのとき、背面の扉がバタンと明いた。そして青谷の知らない男の声がした。
「怪しいとは僕のことですか」
ヌックリと青谷の前に立ったのは、長身の髭《ひげ》だらけの工夫体の男だった。作業服はヨレヨレながら、その声は気味の悪いほどしっかりしていた。
「僕こそ無罪ですよ。署長さんの云ったように貴下には手錠が懸るのが本当です。しかしすこし事実の違っている点がありましたから、訂正して置きましょう。この話の方が青谷君の腑《ふ》に落ちるでしょうから」
「君は誰です?」
「私ですか。人間灰が湖上へ降り注いでいる真下を舟で渡った男です。やがて帽子から顔から肩先から、融《と》けた血で血達磨《ちだるま》のようになった男です。なるほどこの肉も血も、珠江夫人のではなかった。貴下の言うとおりにネ。血型《けっけい》O型の人肉は誰だったのでしょう。それは貴下の家から程近い墓場の下に睡っていた女のものでした。峰雪乃《みねゆきの》――ご存知ですか、この名前を。たった今、その土饅頭を崩《くず》して棺桶の中を開いて来ましたが、中は全く空っぽです。貴下はあの晩、一度工場の門を出て墓場へゆき、闇《やみ》に紛《まぎ》れてこの仏《ほとけ》を掘りだし、工場へ引返したのです。そして人肉散華《じんにくさんげ》をやりました。墓の方は時間が無かったために、壊した土饅頭を作り直す暇がなく、上に土だけ被《かぶ》せておいたところを、はからずも通りかかった一人の男が見ました。つまりこの僕がネ」
髭男はニヤリと笑った。
「全くお気の毒でしたネ。人肉散華から再び帰って、貴下は土饅頭を作り、トラックの跡を消したが、それはもう遅すぎました。なぜこんなことをやったか。貴下はその夜かねての手筈で夫人に姿を隠させて、丁度《ちょうど》夫人が失踪したようにみせたのです。そして万事は赤沢博士に嫌疑がかかり、そしていい加減なところで博士が自滅するように計画をたてたのです。ところが署長のために不意に手錠をかけられてしまったので、狼狽《ろうばい》のあまり、血型のことなど持ち出して、即座に手錠を解かせるつもりでした。永く手錠をかけられていることは貴下の大不利ですからネ」といって髭男はジロリと青谷の顔を見た。
「なぜ大不利か? 手錠をかけられていることが永いほど、純潔らしい貴下の顔形が曇ってゆくからです。これまで六回に亘って貴下が犯してきた変態殺人がそのまま露見せずに終るとは貴下も考えないでしょう。貴下は全く許すべからざる趣味の人です。貴下は神を忘れている。科学者が神を忘れたときは、いつまでも貴下のようになりやすいものです。こうしているうちにも、湖底に潜《くぐ》った潜水夫が、六人の犠牲者の遺物を捜しあてて持ってくるかも知れません。……手錠を早く外《はず》して貰いたいために、貴下は反証なんかを挙げて署長を駭《おどろ》かせたが、貴下は自らの罠にかかったのです。珠江夫人は本館内の貴下の室に隠れていました。夫人は一旦貴下の誘惑にかかりはしたものの前非を悔いて、実は博士の室へ打ち明けに出たところを、博士は幽霊だと駭いたのです。そしてとうとう貴下の仕かけて置いた罠に陥ってあの最期です。僕もあのときは、もっと上等の扮装《なり》をして一行に加わっていたので、『幽霊』という言葉とかねて血型の相違についての疑問とによって、夫人の生存していることを悟りました。そして一足お先に夫人と共にこっちへ帰っていたのです。逢いたければ夫人をここへ連れてきましょうか」
一座の駭きの中に、青谷は眼を閉じた。しかし暫くするとまた頭を上げて云った。
「すると貴下は一体誰ですか」
「僕ですか」と髭男が云った。「僕はこの右足湖畔の怪を調べるために、東京から派遣されたこういう者です。犯人を捜す便宜《べんぎ》のため、署長さんに永く隠して貰っていたのです」
そういって、青谷技師の手錠の上へ一枚の名刺を置いた。それには「私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》」とあった。
底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1934(昭和9)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:たまどん。
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
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