わる右足湖の東の地を云う。湖口は東丘村が湖に臨《のぞ》むところを云う)から、右足湖を越えて、庄内村(右足湖の西の地を云う、空気工場はそれの湖水に臨む湖尻《うみじり》にある)へ入ろうとしたが途中、東丘村で日が暮れ、湖水にはまだ遠かったこと。
(二)午後七時半ごろ、かなり湖水近くまで来たと思ったときに、一つの墓地に迷いこんだ。そこには、真新しい寒冷紗《かんれいしゃ》づくりの竜幡《りゅうはん》が二|流《りゅう》ハタハタと揺《うご》めいている新仏《にいほとけ》の墓が懐中電灯の灯りに照し出された。墓標《ぼひょう》には女の名前が書いてあったが覚えていない。しかし墓は土をかけたばかりで、土饅頭《どまんじゅう》の形はまだ出来ていなかったこと。
(三)墓の側にはトラックの跡がついていたので、それについて行けば本道に出るだろうと思って辿《たど》ってゆくと、やがて一軒の家の前に出た。標札には「湖口《ここう》百番地、青谷二郎」と認《したた》めてあった。その家の前に湖水の水が騒いでいたこと。
(四)湖水を渡るつもりで舟を探したところ小さいのが一|艘《そう》あったので、これに乗って西へ西へと漕《こ》ぎ出した。西風はだんだん強くなって、船は中々進まない。半分ぐらい来たところで、真正面に空気工場の灯が見えた。元気を盛りかえして漕いでゆくうちに、風が急に変ったものと見え舟が北岸《ほくがん》に吹き寄せられた。そのとき、ちょっと気がついたのは、たいへん冷い雨が顔に振りかかったことだが、大汗かいているときなので気持ちがよかった。この雨はまもなく熄《や》んだ。それからは岸とすれすれに湖尻《うみじり》まで漕ぎつけたこと。
(五)湖尻に上ったのが十時半ごろだった。空気工場の横を通ったがなんだか辺に白いものが見えるので、懐中電灯で照らしてみると、構内に気球が三個、巨体を地上の杭《くい》に結びつけられて、風にゆらゆら動いていたこと、工場の中窓には灯がついていないようだった。
(六)それから工場を後にし、大西ヶ原を横断して、庄内村の家つづきまで来たところで、駐在所の巡査に捕えられたこと。
「……なるほど、こいつは面白い」
 と署長は一人で悦《えつ》に入《い》っていた。
「なにが面白いものか」
 と署長の頭の上で、頓狂《とんきょう》な声がした。駭《おどろ》いて署長がうしろを向くと、そこには彼と犬猿《けんえん》の間にあるK新報社長の田熊氏が嘲笑《あざわら》っていた。彼は署長の手帖の中身をスッカリ藁半紙《わらばんし》に書き写してしまってから、激しい地声《じごえ》でまくし立てた。
「手帖を展《ひろ》げるなら、こんなくだらんことを見せるのは止して、犯人の名を書いてあるところでも見せたがいいよ」
「オイ貴様、盗人《ぬすびと》みたいなやつだナ。そんな暇があるなら職務執行妨害罪というのを研究しておけよ」
 田熊は咳払いと共に向うへスタスタ歩いていった。
「どうも彼奴《きゃつ》は苦が手だ。……そこで今のうちに……」
 と署長は、周到に手帖を畳んで冥想《めいそう》していると、そこへ庄内村の巡査が入って来て彼の机の前で挙手の敬礼をした。
「報告に参りました」
「ああ、君か。いや御苦労だった。あれはどうだったネ」
 その巡査は、署長の命令によって、今朝から右足湖畔《うそくこはん》をめぐって捜索して来た者だった。
「御命令によりまして、第一に空気工場へ参りました。午前八時でしたが、気球は地面に四基だけ結んでありました」
「四個?」署長は手帖を拡げて首をかしげた。
「陳述によると、懐中電灯ニヨリ三個ノ気球ヲ認メタ――とある。すると君の報告の方が一つ多いね」
 署長は鉛筆を嘗《な》め嘗め三個の横に4とかいた。
「第二の、湖尻《うみじり》で村尾某の乗りました舟を探しましたが見当りませんので」
「舟が見当らぬ? そうか。湖水の中を探ってみるんだネ」
「それからトラックの跡で、墓場から青谷二郎の家までついていたという話でしたが、これはハッキリ見えませんでした。誰かが地均《じなら》しをしたような形跡は見ました」
「フン、フン」と署長はまた手帖へ書きこんで「それからあと、どうした」
「次は新仏のことですが、あれは確かにございました。峰雪乃《みねゆきの》の墓です。これは初産《ういざん》に気の毒にも前置胎盤で亡くなりましたので……。この墓については大体おっしゃった通りでしたが、ただ違いますとこは、新仏の上は土が被せてあるというお話でしたが間違いで、もう既に綺麗な土饅頭《どまんじゅう》ができていました」
「ホホウ、そうか」と署長はまた鉛筆を嘗めた。「その次は……」
「もうそれきりです」
「うん、これは御苦労だった。では適宜に引取ってよろしい」
 巡査は署長の方へ向いてペコンとお辞儀した後、側を向いてもう一つお辞儀をし、廻れ右をして帰っていった。
「さあ、これだけ材料が揃えば、まずわしの面目も立つというものだ」
 と署長は呟いた。途端にその背後で例のエヘンという咳払いが聞えたので、署長は急に苦《に》が虫《むし》を噛みつぶしたような顔になった。
「なんじゃ、これは一体」
 とベタ一面に鉛筆を走らせた藁半紙《わらばんし》を署長の鼻先につきつけたのは、もう夙《とっ》くに帰ったものとばかり思っていたK新報社長の田熊だった。
「こんなまどろこしいことはやめろ。これでは殺人事件は何年たっても解けないぞ。号外だって之《これ》までに六遍も出しそこなった。犯人の血まみれ男はどうしたのだ。あいつをここへ引擦《ひきず》り出し給え。一体あの怪漢を、こんどは厳重に囲って見せぬようだが、あれは一体何者だ。とにかくこの次来たときにも、手帖と睨《にら》めくらでは、いよいよ新聞で書きたてるぞ、いいか」
 田熊は云うだけのことを云うと、またスタスタと向うへ行った。
「智恵のない奴は、哀れなものだ」そう云ってニッと意味深い笑いを浮べた署長は、また村尾某の陳述書を読みだしたが、
「そうそうこれを頼まれていた」
 彼は電話機をひきよせると、番号を云ってK町の測候所を呼び出した。
「ああ、こっちはK署ですが。あのウ、右足湖を中心とする一帯の風速と風向きとを伺いたいのですが、昨夕から今朝にかけてです。……なるほど、……なるほど」としきりに感心していたが「そうですか、昨夜九時半ごろまでは西風、そこで風向きが一変して南西風に変った。ああそうですか」
 署長はまた何やら手帖の中に丹念に書こんだ。それから立ち上ると側の主任に自動車を命じた。
「わしは一寸庄内まで行って、村尾某に会って、それから都合によって、空気工場へ廻るぞ」といって出かけた。
 後で署員たちは、あの老衰署長が、こんどに限って、どうしてあのように威勢がよかったり、味な調べ方をやるのか不思議がった。


     4


 気短の田熊社長は、彼の社長室の床をドンドン踏み鳴らしていた。彼の脚のすぐそばには、菜葉服《なっばふく》の工夫が三人ほど、社長の足が飛んでくるのをヒヤヒヤ気にしながら、しきりとなにか針金を床下から引張りだして接ぎ合わせていた。電話工事をやっているらしかった。
「オイ何時まで懸《かか》るのだ」
「もう直ぐです……」
 丁度いい塩梅に、そのとき工事が完成した。工夫は受話器に耳を懸けて、ラジオのような器械の目盛盤をいじっていたが、やがてニッコリ笑うと、受話器を外して社長へ薦《すす》めた。
「これで聞えるのだナ。よオし、皆はやく部屋を出てゆけッ」
 一同は足を宙に浮かせて、室を出ていった。
「さあ、これでアノ庄内村の調室の模様がすっかり判《わか》るんじゃ。犯人村尾某の供述を、警察がどんなに隠しても、わしには知れずにゃいないのじゃ。あとできっと丘先生、さぞや腰をぬかすことじゃろう」田熊社長は村尾某の監禁されている調室から秘密に電話線を引けたので、向うの話を盗聴できるというので大変機嫌がよかった。
 間もなく、待ちに待った調べ室の会話が、低音ながら聞えてきた。
(どうも失礼しました)と聞きなれぬ声がした。
(いえ、なに……)といったのは、どうやら丘署長らしい。
(……そんな訳ですから……)と始めの声が伝った。
 なんでも前からの話の続きらしい。(私の推理はですナ、九分どおり実証の上に立っているのですが、惜しいかな後の一分のところが解らないために、結局仮定を出でないのです。その不満足なままで申上げますと、さっきも説明しましたとおり、犯人はその夜強い西風が吹くということを確めた上で、かの粉砕した屍体を携《たずさ》えて、気球の一つに乗ったのです。ロープを解くと気球はズンズン上昇します。風が真西から吹いていますから、ごらんなさいこの右足湖の中心線の上に気球は出ます)
 田熊社長は、右足湖の位置の話がでたので周章《あわ》てた。見廻すと、社長室の壁に、右足湖を含むこの辺一帯の購読者分布地図が貼ってあったので、彼は盗聴器一式を両手で抱えて壁際へ移動した。
(……この右足湖の縦の中心線が、正しく東西に走っていることからして、気球を湖水の真中に掲げるには、西風の吹く日を選ぶより外に仕方がなかったのです。さてそれから、程よいところで、彼の犯人は灰のようになった人体の粉末を、気球の上から湖上に向って撒いたのです。西風にしたがって、この人間灰は水面に落ちますが、今申したように気球は中心線上にいるので、灰が多少南北に拡がっても、また東に流れても、うまく湖面の中に落ち、陸地には落ちないのです。
 悉《ことごと》くが水中に落ちてしまえば、いずれこれは魚腹の中に葬られることでしょう。そうすれば彼の屍体は完全に抹消されたことになります。なんと素晴らしい屍体処分法ではありませんか)
(なるほど、これア卓越した方法ですネ)
 と丘署長の声が感嘆した。
(この方法で、六人の犠牲者はうまく片づけられたのです。当夜強い西風が吹いていたことは、署長のお持ちになった測候所の風速及び風向きの報告で証明されます。七人目の犠牲者も、同様に気球に載せられ天空高く揚げられたのでした。そして同様にして粉砕屍体は気球の上から湖面へ向けて撒かれたのです。しかし前の六回のときとは違って、二つばかりの誤算が入ってきました。それは犯人のために、実に不幸な出来ごとでありました。
 二つの誤算――その一つは、撒いているうちに、それまで吹いていた西風が急に向きを南西に変えたことです。それがためどんなことが起ったかと云いますと、今まで真東へ飛んでいた人間灰は改めて北東へ流され、遂にその一部は、右足湖の北岸に墜落したのです。ごらんなさい。この壜に入っている異様な赤黒い物こそ、今日私が北岸へでかけて採集してきた七人目の犠牲者の肉片《にくへん》です)
 田熊社長は、電話で話は盗めても、その人肉《じんにく》の入った壜を盗視できないことをたいへん口惜《くやし》がった。
(もう一つの誤算は……)と例の声は云ったが、そのとき思いがけない「呀《あ》ッ」という叫び声が聞えた。(……こりゃ可笑しい。こんなところに変なものが……)とまでは聞えたが、そのあとはガチャリという音を残して、何も聞えなくなってしまった。
 田熊社長は、惜しいところで盗聴器が聞えなくなったので、顔を真赤にして口惜がった。すぐさま、再び工夫を呼んで直させたが、五分ばかりして彼等は、恐《おそ》る恐る社長の前へ罷《まか》りでて、云ったことである。
「社長さん、もういけません。向うの方で秘密送話器を切ってしまいました。この方法じゃ盗み聴きはもう駄目です」
 社長は万事を悟って、苦が笑いをした。
「じゃこれから、空気工場へ出かける」
 道々田熊社長は腕組をしながら、あの盗聴から得たさまざまの興味ある疑問について考えた。
「丘署長と、話をしていたのは一体誰だろう。大分腕利きらしいが、あんな男がK署に居《い》たかしら?」
 どう考えても、そんな気の利いた人物は考え出せなかった。その疑問は預《あず》かりとしておいて外《ほか》にも疑問の種があった。
「話によると、どうやら犠牲者の屍体を粉々に砕いて、気球の上から撒くいう仮定を考えている
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