……。
母親 あーら、いやですわ。あれはあたしが動物学の暗誦《あんしょう》をしていたんですわ。
父親 (飯を頬張りながら)動物学だって。
母親 ええ。つまり、斧足類の動物と申しますと、蛤だの、蜆だの、あさりだの、それから赤貝やばか貝でございますの。
父親 なあんだ。御馳走じゃなかったのかい。それは一向《いっこう》つまらんねえ。(気をかえて)しかし、なぜお前が赤貝やばか貝を暗記する必要があるんだ。
母親 あなたア! あ、あ、あなたア!
父親 ななな、なあんだ。急に、か、金切《かなき》り声《ごえ》など出しやがって。
母親 失礼いたしました。ではございますが、あなたは道夫に対し、たいへん冷淡《れいたん》でいらっしゃいます。道夫が、あの通り受験準備のため、好きなレコードをきくことさえよしていますのに、あなたは道夫の入学試験のことを、ちっとも心配しておやりにならないんですもの。
父親 冗談いうな。俺はどんなにか心配を――。
母親 まあ、あたくしの申すことをお聞きあそばせ。あたくしなんか、道夫と一緒になって受験勉強をしているのでございますよ。頭足《とうそく》類、腹足《ふくそく》類、斧足《ふそく》類などを暗記しておりますのも、道夫以上に母親が知っていれば、道夫が発奮《はっぷん》すると思うからでございますよ。それから、あたくしは、新聞の広告面を毎日隅から隅まで目をとおしまして、なにか新刊で優秀な受験準備書がありますと、すぐ本屋へとんで行って買ってまいります。そしてまずあたくしが読んでみまして、他の受験書に出ていない問題を選《よ》りわけまして、道夫に毎日毎日やらせているのでございますよ。あたくしは、いやしくもわが国において印刷になった練習問題なら、一度は必ず道夫にやらせておかなければ、枕を高くして寝られないのでございます。そのお陰で道夫は入学試験のとき、どんなに楽だか知れません。それほどあたくしが……。
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それなのに――。
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父親 おい御飯だ、お代りだ。
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茶碗と飯櫃《おひつ》の音。
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母親 あなたはあまりに冷淡《れいたん》です。
父親 ばかをいうな、お前が熱心であることは認めるが、そんなやり方は感心できない。
母親 とんだことを仰言《おっしゃ》います。
父親 なあに、本当のことをいっているんだ。無茶苦茶に暗記をしたり、それから、また無茶苦茶に受験書を買いあつめたりするのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だよ。そんな詰めこみ主義は役にたたんばかりか、むしろ反対に害がある。常識上重要な原理さえしっかり覚えていれば、いいんだよ。受験書なんか、一冊で沢山だ。この間も勘定したら、お前は漢文《かんぶん》の受験参考書だけでも二十七冊も集めていやがった。まるで蒐集《しゅうしゅう》マニアだ。
母親 蒐集マニアだなんて、まあひどい。あなたの原理主義なんかに従っていると、高等学校のあのむずかしい問題なんか、一題だって出来やしませんわ。
父親 お前がそんなに勉強しているのならちょっと尋《たず》ねるが、颱風が近づいてね、いいかい、真東から風が吹いているんだ。しからば颱風の中心はどの方角にあるか。
母親 颱風の中心ですって、そんなこと試験問題集に出ていませんわ。
父親 それ見ろ、知らないじゃないか。これからの試験にこういう常識上知っておかなければならぬ問題が出るんだぞ。参考のため教えてやろう。いいかね、真東から風が吹いていれば、颱風の中心は南南西よりちょっと西よりの方角にあるんだ。大ざっぱにいうと、風を背にして立って左手を斜前《ななめまえ》へ出す。それが大体、颱風の中心を指《さ》す。どんなものだい。
母親 へへん、さよでございますか、じゃあこんどはあたくしが伺《うかが》いますわ。東洋歴史で、中国で辮髪令《べんぱつれい》が出たのは何年でございますの。
父親 知らん。
母親 あーら、御存知ありませんの、あれは西歴で一六四五年でございますわよ。ほほほほ、じゃあ赤壁《せきへき》の戦《たたかい》は何年でございますの。
父親 知らんよ。
母親 えへん、西歴二〇八年。ではネルチンスクの条約は。
父親 一々|覚《おぼ》えとらん、そんなものは年代表《ねんだいひょう》をめくればすぐ分る。
母親 でも御存知ないのでは、入学試験に合格しませんわ。
父親 ばか、そんな無駄な暗記は意味がないよ。辮髪令の年号なんか何の役に立つんだ。
母親 だからあなたは冷淡だと申すのですわ。万一辮髪令の年号が試験に出て、道夫が答えられなかったその時は、落第でございますよ。一人息子を落第させるなんて、あなたは鬼《おに》か蛇《じゃ》か、実になんという……。
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隣室の襖ががらりと開く(道夫起き出る)
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道夫 お父さんもお母さんも、やかましくって、僕ねむくなくなっちゃった。久し振りに、レコードでもかけようかな。
母親 これ道夫。
父親 なあに、かけさせておやりよ。お父さんはお前を慰安《いあん》してやろうと思って、そこにレコードを買ってきたよ。
母親 まあ、あなた。一体どんなレコードを買っていらしったの。
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道夫の勉強の邪魔を……。
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父親 まあ、そう心配しなさんな。おれは道夫を喜《よろこ》ばせ、且《か》つ愉快に勉強させてやろうと思って、これを買って来たんだ。これ一名《いちめい》親心《おやごころ》のレコードという。道夫、さあ、かけてごらん。「算術《さんじゅつ》の歌」というラベルの方だよ。
道夫 はい「算術の歌」の方ですね。
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△レコード「算術の歌」賑《にぎや》かに廻《まわ》る。
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底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
底本の親本:「十八時の音楽浴」ラヂオ科学社
1939(昭和14)年5月5日発行
初出:「家庭コント 新学期行進曲」JOAKラジオドラマ台本
1938(昭和13)年9月30日放送
※「西歴」は底本通りです。
入力:土屋隆
校正:田中哲郎
2005年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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