には、博士との間にどういうものか子種《こだね》がなかった。それで多量の閑暇《かんか》をもてあましたらしい夫人は、間もなく健康を恢復《かいふく》して更生《こうせい》の勢いものすごく社会の第一線にのりだして行った柿丘秋郎の関係している各種の社会事業に自らすすんで、世話役をひきうけたのだった。その夏は、海岸林間学校が相模湾《さがみわん》の、とある海浜《かいひん》にひらかれていたので、柿丘夫妻は共にその土地に仮泊《かはく》して、子供たちの面倒をみていた。一方雪子夫人は、東京の郊外を巡回する夏期講習会の幹事として、毎日のように、早朝から、郊外と云っても決して涼しくはない会場に出向いては、なにくれと世話をやいていたのだった。
 そこで僕自身のことを鳥渡《ちょっと》お話して置かねばならないが、僕は元来、柿丘と郷里の中学を一緒にとおりすぎてきた、いわゆる竹馬《ちくば》の友《とも》というやつで、僕は一向金もなく名声もない一個の私立中学の物理教師にすぎなかったのであるが、幼馴染というものはまことに妙なもので、身分地位のまるっきり違った今日でも真の兄弟のように呼びかけたり、吾儘《わがまま》を云いあうことがで
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