た。そのような危機《ピンチ》を、白石右策博士は見事にすくったのだった。柿丘にしてみれば、博士に救われたのは、病気ばかりではなく、彼の社会的地位も、彼の家庭も、彼の財産も、ことごとく博士の手によって同時に救われたことになるのだった。博士のサナトリューム療院から退院するという日、柿丘は博士の足許にひれふして、潸然《さんぜん》たる泪《なみだ》のうちに、しばらくは面をあげることができないほどだった。
柿丘秋郎と白石博士との両家庭が、非常に親しい交際《つきあい》をするようになったのは、実にこうした事情に端《たん》を発していた。
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この二組の夫婦は、しばしば一緒になってお茶の会をしたり、その頃|流行《はや》り出したばかりの麻雀《マージャン》を四人で打ったり、日曜日の午後などには三浦《みうら》三崎《みさき》の方面へドライヴしてはゴルフに興《きょう》じたり、よその見る眼も睦《むつま》じい四人連れだった。しかしながら、博士と雪子夫人と、柿丘と呉子《くれこ》さんとの関係は、いつまでもそう単純ではあり得なかった。
そのことを始めて僕が知ったのは、或る夏の終り近い一日だった。雪子夫人には、博士との間にどういうものか子種《こだね》がなかった。それで多量の閑暇《かんか》をもてあましたらしい夫人は、間もなく健康を恢復《かいふく》して更生《こうせい》の勢いものすごく社会の第一線にのりだして行った柿丘秋郎の関係している各種の社会事業に自らすすんで、世話役をひきうけたのだった。その夏は、海岸林間学校が相模湾《さがみわん》の、とある海浜《かいひん》にひらかれていたので、柿丘夫妻は共にその土地に仮泊《かはく》して、子供たちの面倒をみていた。一方雪子夫人は、東京の郊外を巡回する夏期講習会の幹事として、毎日のように、早朝から、郊外と云っても決して涼しくはない会場に出向いては、なにくれと世話をやいていたのだった。
そこで僕自身のことを鳥渡《ちょっと》お話して置かねばならないが、僕は元来、柿丘と郷里の中学を一緒にとおりすぎてきた、いわゆる竹馬《ちくば》の友《とも》というやつで、僕は一向金もなく名声もない一個の私立中学の物理教師にすぎなかったのであるが、幼馴染というものはまことに妙なもので、身分地位のまるっきり違った今日でも真の兄弟のように呼びかけたり、吾儘《わがまま》を云いあうことができるのだった。僕は、この有名なる富《と》める友人のお蔭で、その邸《やしき》に出入しては、自分の財布に相談してはいつになっても得られないような御馳走にありついたり、遇《たま》には独り身の鬱血《うっけつ》を払うために、町はずれの安待合《やすまちあい》の格子《こうし》をくぐるに足るお小遣《こづかい》を彼からせしめたこともあった。彼が呉子《くれこ》さんを迎えてからは、そう大《おお》ぴらには、せびることもできなかったが、彼の代りに出版の代作《だいさく》をしたり、講演の筋を書いたりして、その都度《つど》、学校から貰う給料に匹敵するほどの金を貰っていた。呉子さんはこの辺の事情を、うすうす知ってはいたのであろうが、生れつきの善良なる心で、僕をいろいろと手厚く歓待《かんたい》してくれたのだった。
僕は、柿丘邸の門をくぐるときには、案内を乞《こ》わずに、黙って入りこむのが慣例になっていた。柿丘が呉子さんを迎えてからは、この不作法《ぶさほう》極《きわ》まる訪問様式を、厳格《げんかく》に改《あらた》めたいと思ったのではあるが、どうも習慣というのは恐ろしいもので、格子《こうし》にちょいと手がかかると、僕はいつの間にやらガラガラとやってしまって、気のついたときには、茶の間の座蒲団《ざぶとん》の上にチョコナンと胡坐《あぐら》をかいているという有様だった。しかし僕は、柿丘邸の玄関と茶の間と台所と彼の書斎と、僕が泊るときにはいつも寝床をとってもらうことになっている離座敷《はなれざしき》との外には、立ち入らぬ様にきめていた。しかし、たった一度、眼も醒《さ》めるような紅模様《べにもよう》のフカフカする寝室の並んだ夫妻のベッド・ルームを真昼《まっぴる》のことだから誰も居ないだろうと思って覗《のぞ》きに行き、しかも失敗したことはあるが、まアそのような話は、しない方がいいだろう。
さて、その夏の或る日のことだった。
僕は講習会で、つまらぬ講義をすませてから(その講習会に、例の牝豚夫人が参加していたことは云うまでもない)、その夜のうちに、一寸読んで置きたい本があったので、その本が柿丘の書棚《しょだな》にあることを兼《か》ねて眼をつけておいたものだから、今日は行って借りてこようと思い、麻布本村町《あざぶほんむらちょう》にある彼《か》の柿丘邸に足を向けたのだった。
玄関をガラリと開けると、僕はいつも履物《は
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