でなくとも、どのような男だって、雪子夫人のような女に出遭《であ》うと、立《た》ち竦《すく》みでもしたかのように彼女から遠のくことが出来なくなるだろう。だが柿丘秋郎を永らく、雪子夫人の肉体への衝動を起させることなしに救っていたものは、実に柿丘秋郎にとって彼女は、恩人の令夫人だったからである。
僕は柿丘秋郎の奇怪な実験について述べると云って置きながら、あまりに永い前置きをするのを、読者はもどかしく思われるかも知れないが、実はこれから述べるところの、一見平凡な事実が、後に至って此の僕の手記の一番大事な部分をなすものなのであるからして、そのお心算《つもり》で御読みねがいたい。
さて、柿丘秋郎が恩人とあがめるという、いわゆる牝豚《めぶた》夫人の夫君は、医学博士|白石右策《しらいしうさく》氏だった。白石博士は、湘南《しょうなん》に大きいサナトリューム療院を持つ有名な呼吸器病の大家だった。一般にサナトリューム療院といえば、極《ご》く軽症《けいしょう》の肺病患者ばかりに入院を許し、第二期とか第三期とかに入ったやや重症の患者に対しては、この療法が適しないという巧みな口実を設けて、体《てい》よく医者の方で逃げるのだった。だが吾が白石博士の場合にかぎり、どんな重症の患者も喜んで入院を許したばかりではなく、博士独得の病巣固化法《びょうそうこかほう》によって、かなり高率の回復成績をあげていたのだった。それは世間によく知られているカルシウム粉末を患者の鼻の孔から吸入させて、病巣に石灰壁《せっかいへき》を作る方法と些《いささ》か似ているが、白石博士の固化法では、病巣の第一層を、或る有機物から成る新発明の材料でもって、強靱《きょうじん》でしかも可撓《かとう》な密着壁膜《みっちゃくへきまく》をつくり、その上に第二層として更に黄金《おうごん》の粉末をもって鍍金《ときん》し、病菌の活躍を封鎖したのだった。
この白石博士を、柿丘秋郎は恩人と仰いでいると、茲《ここ》に誌したが、柿丘も実は博士のこの新療法によって、更生の幸福を掴《つか》んだ一人だった。そして柿丘が、もう一ヶ月遅く、博士の病院の門をくぐるか、乃至《ないし》はもう一ヶ月速く博士の診断を仰《あお》いだとしたら、彼は更生《こうせい》の機会を遂に永遠に喪ったことだろう。それと云うのが、博士がこの新療法に確信を得たばっかりのところへ柿丘は馳けつけたことになり、いわば博士の公式な第一試術患者となったわけで、また一面において柿丘の病状は第三期に近く右肺の第一葉をすっかり蝕《むしば》まれ、その下部にある第二葉の半分ばかりを結核菌に喰いあらされているところだったので、若《も》しもう一と月、博士の門をくぐるのが遅かったとすると、流石《さすが》の博士もその回春《かいしゅん》について責任がもてなかったのだった。
ここに一寸だけ、柿丘秋郎の輪廓《りんかく》を読者に示さねばならぬ羽目になったけれど、柿丘秋郎は彼の郷里の岡山《おかやま》に、親譲りの莫大《ばくだい》な資産をもち、彼の社会的名声は、社会教育家として、はたまた宗教家として、年少ながら錚々《そうそう》たるものがあり、殊《こと》に青年男女間に於ては、湧きかえるような人気がある人物だった。ちょうど病気に倒れる直前には、その宗教団体の選挙があって、彼は猛然なる運動の結果、その弱年にも拘《かかわ》らず、非常に重要な地位に就《つ》いた。凡《およ》そ宗教家とか社会教育家というものほど、奇怪な存在は無いのであって、彼等のうちで、真に神に仕《つか》え世の罪人を救うがためにおのれの一命をも喜んで犠牲にしようという人物は、たいへん稀《まれ》であって、彼等の多くは、たまたま職業を其処にみいだしたのであって、それから後は無論のこと職業意識をもって説教をし、燃えるような野心をもって上役《うわやく》の後釜《あとがま》を覘《ねら》み、妙齢《みょうれい》の婦女子の懺悔《ざんげ》を聴き病気見舞と称する慰撫《いぶ》をこころみて、心中ひそかに怪しげなる情念に酔いしれるのを喜んだ。柿丘秋郎の正体もつきつめて見れば、此の種の人物だったが、割合に小胆者《しょうたんもの》の彼は、幸運にも今までに襤褸《ぼろ》をださずにやってきたのだ。これは僕が妬《ねた》みごころから云うのではない。
柿丘が、あの病気に罹《かか》ってその儘《まま》呼吸《いき》をひきとってしまったら、彼の競争者は、たちまち飢《う》えたる虎狼《ころう》のごとくに飛びかかって、柿丘の地位も財産ものこらず平《たいら》げてしまい、その上に不名誉な背任《はいにん》のかずかずまで、有ること無いことを彼の屍《しかばね》の上に積みかさねたことだったろう。柿丘秋郎は、その間の雰囲気を、十二分に知っていた。
(もうこれは駄目だ。最後の覚悟をしよう)とまで、決心した彼だっ
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