きもの》を見る習慣があった。並んでいる履物の種類によって、在宅中の顔触《かおぶ》れも知れ、その上に履物の主の機嫌がよいか、それとも険悪《けんあく》かぐらいの判断がつくのであった。その日の玄関には、一足の履物も並んで居なかった。では、おん大《たい》始め夫人まで、まだ海辺《かいへん》から帰っていないのだなと思ったことだった。
 それなら、ソッと上りこんで、茶の間で昼寝をしているかも知れない留守女中のお芳《よし》を吃驚《びっくり》させてやろうと思って、跫音《あしおと》を盗ませて入っていったのだった。ところが茶の間にはお芳の姿が見えなかったばかりか、勝手元までがピッシャリ締めてあり、座蒲団の位置もキチンと整頓していて、シャーロック・ホームズならずとも、お芳は相当|長時間《ちょうじかん》の予定で外出したらしいことがわかった。だが、それにしては、何という不用心《ぶようじん》なことだ。現に僕という泥棒がマンマと忍びいったではないか。
 だが、このときだった。ボソボソいう声がどこからともなく聴えたように思った。耳のせいかしらと、疑いながら、じッと耳を澄ませていると、いやそれは空耳《そらみみ》ではなかった。たしかに人声がするのだ。しかもそれは此の家の中から洩れ出でる話声だった。
 柿丘夫妻はもう帰っていたのだったか。僕は立ちあがるとその声のする方へ、二三歩踏みだしたのだったが、およそ人間が、こういう機会にぶつかることがあったなら、十人が十人(悪いこととは知りながら)と言訳《いいわ》けを吾れと吾が心に試みながら、そっと他人の秘密を盗みぎきするものなのである。僕の場合に於ても、たちまち全身を好奇心にほて[#「ほて」に傍点]らせながら、小さい冒険の第一行動をおこしたことだった。ああ、しかしそれは何という大きい衝動を僕にあたえたことだったろう。話し声の一人は柿丘秋郎にちがいなかったけれど、もう一人の話し相手は呉子さんではなく、なんとそれは白石博士夫人雪子女史だったではないか。
 勝手を知った僕は、逸早《いちはや》く身を飜《ひるがえ》して、書斎のカーテンの蔭にかくれることに成功した。そこからは隣りのベッド・ルームの対話が、耳を蔽《おお》いたいほど鮮《あざや》かに、きこえてくるのだった。
 そこに聴くことのできた話の内容は、一向に二人の関係について予備知識をもたなかった僕を、驚愕《きょうがく》の淵《ふち》につきおとすに十分だった。読者は、次のくだり[#「くだり」に傍点]を読んで、僕の呆然《あぜん》たりし顔を想像していただきたい。

「貴女《あなた》はどうしても、僕の希望に応じて呉れないのですか」
「いやなことですわ、ひどい方」
「こんなに僕が、へいつくばってお願いをするのに、それに応《おう》じてはくださらないのですか」
「あたしは、どうあってもいやなんです」
「ほんの僅かな時間でよいのですから、この上に寝て下さい」
「いくらなんでも、貴下《あなた》の前に、そんなあられ[#「あられ」に傍点]もない恰好をするのは、いやですわ」
「お医者さまの前へ行ったのだと思って我慢して下さい」
「お医者さまと、貴下とでは、たいへん違いますわ」
「なんの恥かしいものですか、僕が――」
 なにやら、せり合うような気配《けはい》。
「暴力に訴えなさるのですか(とキリリとした雪子夫人の声音《こわね》、だが語尾は次第に柔かにかわる)まア男らしくもない」
「でも今を置いては、機会は容易に来ないのですから」
「あたしは、貴下の御希望に添う気持は、一生ありません。貴下も神に仕《つか》える身でありながら、まだ生れないにしても、一つの生霊《せいれい》を自《みずか》ら手を下して暗闇《やみ》から暗闇《やみ》にやってしまうなんて、残酷な方! ああ、人殺し……」
「大きい声をしないで下さい。どうしてこれだけ僕が説明をするのに判ってくれないんです。貴女が僕の胤《たね》を宿《やど》したということが判ったなら、僕は一体どうなると思うのです。社会的地位も名声も、灰のように飛んでしまいます。そうなると貴女とだって、今までのように贅沢《ぜいたく》な逢《あ》う瀬《せ》を楽しむことが出来なくなるじゃありませんか。僕の病気が再発しても、最早《もはや》博士は救って下さいません。それを考えて、僕は愛していて下さるのだったら、僕の言うことを聞きいれて、この簡単な堕胎手術をうけて下さい」
「何度おっしゃっても無駄よ、あたしはもう決心しているのよ。あたしがお胎《なか》にもっている可愛いい坊やを、大事に育てるんです」
「ああ、それでは、博士を偽《いつわ》って、博士の子として育てようというのですか」
「まア、どうしてそんなことが……。右策《うさく》とあたしとの間に子供が無かったのは、右策自身が子胤《こだね》をもちあわさないからおこっ
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