たことなんです。右策は、それを学者ですからよく知っているのです。だから、あたしが今、妊娠したとしたら、その場であたしの素行《そこう》を悟《さと》ってしまいます」
「だが、僕の子だかどうか判らないとも云える……」
「莫迦《ばか》なことをおっしゃいますな。生れてきた胎児《たいじ》の血液型を検査すれば、それが誰の胤《たね》であるか位は、何の苦もなく判ってよ、それに貴方《あなた》は右策《うさく》とは切っても切れない患者と主治医《しゅじい》じゃありませんこと。あなたの血液型なんかその喀痰《かくたん》からして、もう夙《とっ》くの昔に判っていることでしょうよ」
「ああ、それでは貴女はこれからどうしようというのです。この僕をどんな目に遭《あ》わせようとするのです」
「あたしは、貴方との間にできた坊やを、大事に育てたいんです。あたしは、もうすっかり決心しているのよ。右策《うさく》がこのことに気付いたときは、出て行けというなら出て行くし刑務所へ送りこんでやろうというなら送りこまれもする。しかしいつか、あたしは自由の身となって、坊やと二人で貴方があたしのところへ帰ってくるのを待つんです」
「ウン判った。さては生れる子供を証拠にして、僕の財産をすっかり捲きあげようというのだな。金ならやらぬこともない。だが、交換条件だ、その胎児を××しまって下さい」
「ほほほ、そううまくは行きませんことよ。お金よりも欲しいのは貴方です。この子供が生きている間は、貴方はあたしの懐《ふところ》から脱けだすことができないんですわ。あたしは、あなたの地位を傷《きずつ》けなくてすむもっとよい方法も知っていますのよ。だけど、どうあっても貴方を離しませんわ。貴方はあたしの思うままに、なっていなければならないんですわ。背《そむ》けば、貴方の地位も名声もたちまち地に墜《お》ちてしまいますよ。あたしがしようと思えば、ね。だがそれまでは、貴方は無事に生きてゆかれるのよ。貴方の生命は、一から十まで、みんなあたしの掌《て》の中《うち》に握られてしまってるのよ、今になってそれに気のついた貴方はどうかしてやしない……」
「……」
「アッ、貴方は短銃《ピストル》を握っているわね。あたしを殺そうというのでしょう。ええ判っているわ。でもお気の毒さまですわね。あたしを殺したら、その翌日と言わず、貴方は刑務所ゆきよ。貴方はあたしが殺されたときのことを準備していないようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]者だと思っているの? あたしが死ぬと同時に、一切が曝露《ばくろ》するという書類と証拠が、或る所に保管されているのを知らないのねえ」
「ああ、僕は大莫迦者《おおばかもの》だった」
 鳴咽《おえつ》する柿丘の声と、淫《みだ》らがましい愛撫《あいぶ》の言葉をもって慰《なぐさ》めはじめた雪子夫人の艶語《えんご》とを其《そ》の儘《まま》、あとに残して、僕はその場をソッと滑るように逃げだすと、跣足《はだし》で往来へ飛びだしたのだった。


     3


 その後、柿丘秋郎と、白石博士夫人雪子とは、すくなくとも外見的には、大変平和そうに見えた。室内にレコードを掛けて、柿丘と雪子とが相抱いて踊りはじめると、赭顔《あからがお》の博士は、柿丘夫人呉子さんを援《たす》けておこして、鮮《あざや》かなステップを踏むのだった。
 秋という声が、どこからともなく聞こえてくると、急に誰もが緊張した顔付をするのだった。柿丘秋郎は、かつての日の雪子夫人の恐迫《きょうはく》に震《ふる》えあがったのを忘れたかのように、事業や講演に熱中した。だが、その度毎《たびごと》に、雪子女史の姿が影のようにつきまとっていたのは、寧《むし》ろ悲惨であると云いたかった。
 柿丘秋郎が、自邸の空地の一隅《いちぐう》に、妙な形の掘立小屋を建てはじめたのは、例の密会事件があってから、三十日あまり過ぎたのちのことだった。その堀立小屋は、窓がたいへん少くて、しかもそれが二メートルも上の方に監房《かんぼう》の空気ぬきよろしくの形に、申《もうし》わけばかりに明《あ》いていた。小屋が大体、形をととのえると、こんどは電燈会社の工夫が入ってきて、大きい電柱を立てて、太い電線をひっぱったり、いかめしい碍子《がいし》を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じこんだりしたすえに、真黒で四角の変圧器まで取付けていった。それがすむと、厚ぼったいフェルトや石綿《いしわた》や、コルクの板が搬《はこ》び入れられ、それはこの小屋の内部の壁といわず、天井といわず、床といわず、入口の扉《ドア》といわず、六つの平面をすっかり三重張りにしてしまった。室内へ入ると、まるで紡績工場の倉庫の中に入ったような、妙に黴《かび》くさい咽《むせ》るような臭気がするのだった。だがその割合に呼吸ぐるしくないのは、
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