、今夜はどうかなすったんですか、お顔の色が、すこし良くないようですね」
「あら、そお。そんなに悪い?」
「なんともないんですか」
「そう云われると、今朝起きたときから、頭がピリピリ痛いようでしたわ。きっと、芯《しん》が疲れきっているのねえ」
「用心しないといけませんよ。今夜はなる可《べ》く早くおかえりになっておやすみなさい」
「ええ、ありがとう、秋郎さん」
 そう云って、夫人はそっと額に手をやった。夫人は、巧みにも柿丘の陰謀から出た暗示に罹《かか》ってしまったのだった。
 それから柿丘は、室内を一《ひ》と巡《めぐ》り夫人を案内して廻った。最後に二人が並んで立ったのは、例の奇怪なる振動を出すという音響器の前だった。柿丘は出鱈目《でたらめ》の実験目的を説明したうえで、右手を押釦《おしボタン》の前に、左手を、振動を僅かの範囲に変えることの出来る装置の把手《ハンドル》に懸けた。これは、万一計算が多少の間違いをもっていたときにも、この把手をまわすことによって振動数を変え、例の恐ろしい目的を果そうという仕組みだった。
「じゃ、ちょっと、その音響を出してみますよ。たいへん奇妙な調子の音ですが、よく耳を澄ましてきいていると、なにかこう、牧歌的《ぼくかてき》な素朴な音色があるのです」
 柿丘秋郎は、捉《とら》えた鼠を嬲《なぶ》ってよろこぶ猫のような快味を覚えながら、着々とその奇怪な実験の順序を追っていったことだった。
「まアいいのねえ、早くやって頂戴な」
 と恐ろしい呪《のろ》いの爪が、おのれの身の上に降るとも知らない様子で、雪子女史は実験を待ち佗《わび》るのだった。
「では始めますよ。ほーら、こんな具合なんです……」
 柿丘は右手の指尖《ゆびさき》でもって、押釦をグッとおしこんだ。忽《たちま》ち鈍いウウーンという幅の広い響きが室内に起ったが、その音は大変力の無い音のようで居て、その癖に、永く聴いているとなにかこう腹の中に爬虫類《はちゅうるい》の動物が居て、そいつがムクムクと動き出し内蔵を鋭い牙でもって内側からチクチクと喰いつくような感じがして、流石《さすが》に柿丘も不愉快になった。だが手軽くこの音響をやめては、折角の堕胎作用も十分な効目を奏さないことだろうと思って、我慢に我慢をして押釦から指尖を離さなかった。
「なんだか、やけに地味な音なのねえ」
「どうです、この牧歌的《ぼっかてき》な音色《ねいろ》は……」
「牧歌的なもんですか、地面の下でもぐら[#「もぐら」に傍点]が蠢《うごめ》いているような音じゃありませんか」
 そう云うと、夫人はこの実験台の前から、スッと向うへ歩みはじめた。柿丘はホッとして押釦《おしボタン》から指尖《ゆびさき》を離した。
 夫人は真直に歩いて片隅へまで行ったが、やがてそのまま柿丘の方へ帰ってきた。
「ねえ、このお部屋に、御不浄《ごふじょう》はないのですか?」
 夫人は顔をすこしばかり顰《しか》め、片手を曲げて下ッ腹をグッと抑えるようにしていた。その言葉を聞いた柿丘は、頭がグラグラとするのを覚えて、思わず、手尖《てさき》にあたった実験台の角をギュッと握りしめたのだった。そして、言葉も頓《とみ》に発し得ないで、反対の側の片隅を、無言《むごん》の裡《うち》に指した。そこには黒い横長の木札の上に、トイレットという文字が白エナメルで書きしるされてあった。
 雪子夫人は、吸いつけられるように、その便所の扉《ドア》の方に歩みよった。
 柿丘は、化物のような大口《おおぐち》を開いて、五本の手の指をグッと歯と歯の間にさし入れると、笑いとも泣いているとも分つことの出来ないような複雑な表情をして、ワナワナとその場にうち震《ふる》えていた。
 バタンと、荒っぽく便所の扉のしまる音がして、雪子夫人がヨロヨロと立ち現れた。その面色《かおいろ》は蒼白《そうはく》で、唇は紫色だった。ひょいと見ると夫人は右手に何かをぶら下げているのだった。
「秋郎さん」夫人の空虚《うつろ》な声が呼びかけた。
「……」
「あなたの祈りは、とうとう聞きいれられたのよ。あたしたちの可愛いい坊やは――ホラあなたにも会わせたげるわ」
 ピシャリと、柿丘の頬に、生《な》まぬるいものが当ると、耳のうしろを掠《かす》めて、手帛《ハンカチ》らしい一|掴《つかみ》ほどのものがパッと飜《ひるがえ》って落ちた。
「吁《あ》ッ――」と声をあげて、柿丘は頬っぺたを平手で拭《ぬぐ》ったが、反射的に、その生まぬるいものの付着した掌《て》を、グッと顔の前にさしだした。うわッ、血だ、血、血、ぬらぬらとした真紅な血塊《けっかい》だった。
 柿丘はその場に崩れるように膝を折って倒れると、意識を失ってしまった。
 どの位、時間が経ったのか。彼が再び気がついたときには室内に白石夫人の姿は最早見えなかった。
(兎
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