戦時旅行鞄
――金博士シリーズ・6――
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大上海《だいシャンハイ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大科学者|金博士《きんはかせ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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     1


 大上海《だいシャンハイ》の地下を二百メートル下った地底《ちてい》に、宇宙線をさけて生活している例の変り者の大科学者|金博士《きんはかせ》のことは、かねて読者もお聞き及びであろう。
 かの博士が、今日までに発明した超新兵器のかずかずは、文字どおり枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず、読者の知って居られるものだけでも十や二十はあるであろう。その超新兵器は、発明されて世の中に出る毎《ごと》に、何かしら恐ろしき騒ぎをひきおこし、気の弱い連中を毎回気絶させている次第であった。
 中でも、かの依存梟雄《いぞんきょうゆう》の醤買石《しょうかいせき》委員長は、同じ民族人なる金博士の発明兵器による被害甚大で、そのためにこれまで幾度|生命《いのち》を落しかけたか知れず、醤の金博士を恨《うら》むことは、居谷岩子女史《おいわさん》[#「居谷岩子女史」はママ]が伊右衛門《いえもん》どのを恨《うら》む比などに非《あら》ず、可愛さあまって憎さが十の十幾倍という次第であった。
「えいくそ。この上はなんとかして、わが息のあるうちに、かの金博士めの息の根を止めてくれねば……」
 というわけで、今や醤買石は、執念《しゅうねん》の火の玉と化《か》し、喰うか喰われるかの公算五十パアセントの危険をおかしても一矢《いっし》をむくわで置くべきかと、あわれいじらしきことと相成《あいな》った。
 さて、対金方針は確定した。さらばこの上は、如何なる手段によって、彼でか頭の金博士を抉《えぐ》り殺してしまうべきか。
 醤は、幹部を某所《ぼうしょ》に集めて、秘密会議を開くこと連続三十九回、遂《つい》に会議の結論のようなものが出て来た。
 その結論というのは、次の二つであった。
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   金博士始末案件
(一)王水険博士《おうすいけんはかせ》を擁立《ようりつ》し、金博士を牽制《けんせい》するとともに、必要に応じて、金博士をおびき出すこと。
(二)あらゆる好餌《こうじ》を用意して、某国大使館の始末機関の借用方《しゃくようかた》に成功し、その上にて該機関《がいきかん》を用いて金博士を始末すること。
[#ここで字下げ終わり]
 ここに王水険博士というのは、この程、ソヴェトから帰って来た近代に稀《まれ》なる科学的天才といわれる大学者で、しかも彼は、昔金博士を教えたことがあり、つまり金博士の先生だから、大博士であろうというので、王水険博士の力を借りる計画を樹《た》てたのである。
 それからまた、某国大使館の始末機関というのは、この間新聞にも報道されたから御承知でもあろうが、要するに始末機関とは、人間を始末する機関のことであって、普通われわれの目に日常触れる始末機関を例にとるならば、かの火葬炉の如きは、正《まさ》しく始末機関の一つである。
 どこをどう遣繰《やりく》ったか、とにかく金博士始末計画がうまく軌道《きどう》にのって動きだしたのは、その年の秋も暮れ、急に寒い北西風が巷《ちまた》を吹きだした頃のことである。
 その頃、金博士の許へ、差出人《さしだしにん》の署名のない一通の部厚い書面が届いた。博士が封を切って中を読んでみると、巻紙の上には情緒纏綿《じょうちょてんめん》たる美辞《びじ》が連《つら》なって居り、切《せつ》に貴郎《あなた》のお出《い》でを待つと結んで、最後に大博士王水険|上《じょう》と初めて差出人の名が出て来た。
「あらなつかしや王水険大先生!」
 と、金博士は俄《にわ》かに容《かたち》を改めて、その風変りな書面を押し戴《いただ》いたことだった。
「――ぜひ、わが任地《にんち》に来れ。大きな声ではいえないが、わしも近いうちに、大使館を馘《くび》になるのでのう。わしが飜訳大監《ほんやくたいかん》として威張《いば》っとるうちに、ぜひ来て下されや」
 と、王水険博士は、大秘密を洩《も》らして居られる。金博士にしては、かねがねその土地の風光のいいことも聞いていたので、一度はいってみたいと思っていた。そこへ旧師からの誘《さそ》いである。大先生の尊顔《そんがん》も久々《ひさびさ》にて拝《おが》みたいし、旁々《かたがた》かの土地を見物させて貰うことにしようかと、師恩《しおん》に篤《あつ》き金博士は大いに心を動かしたのであった。
 かくて博士は、出発の肚《はら》を決めた。いよいよ上海を出発したのが、それから一週間の後のことであった。出発日までの一週間を、博士は出発の用意に専念した。すなわち、わざわざ大きなトランクを三つ、自製し、そのトランクの中へ、これまた博士自製のこまごましたものをいろいろと詰めこんだ。まことに手数のかかった出発準備であった。私たちが旅行するときには、デパートへいってファイバーのトランクを一つ買い、あとはテンセンストアで、一つ十銭の歯ブラッシや雲脂取《ふけと》り香水や時間表や蚤取粉《のみとりこ》などを買い集めてそのトランクの中に叩きこんで出かける手軽さとは、正に天地霄壌《てんちしょうじょう》の差があった。
 さあ、金博士の後を、われわれは紙と鉛筆とを持って追いかけることにしよう。


     2


 最初金博士は、三つのトランクを担《かつ》いで飛行場へ駈けつけたが、直ちに断わられてしまった。
「まことにお気の毒ですが、こんな重い大きな荷物は、会社の飛行機には乗りませんので……」
「大きいけれど、そんなに重くはないよ」
「……それに御行先《おゆきさき》の方面は只今気流がたいへん悪うございましてエヤポケットがナ……それにもう一つ残念ながら御行先の方の定期航路は一昨日《おととい》以来当分のうち休航ということになりましたので……それに……」
「ああ、もうよろしい」
 金博士は、サービス係の言葉を押し止《とど》め、
「何かこう、古くて役に立たない飛行機があったら、一つ売って貰いたいものじゃが、どうじゃろう」
「古くて、役に立たない飛行機といいますと」
「つまり、翼《よく》が破れているとか、プロペラの端《はし》が欠《か》けているとか、座席の下に穴が明いとるとか、そういうボロ飛行機でよいのじゃ。兎《と》に角《かく》、見たところ飛行機の型をして居り、申訳でいいから、エンジンもついて居り、プロペラの恰好をしたものがついて居ればいいのだ」
「そういう飛行機をどうなさいますので……」
「なあに、わしが乗って、自分で飛ばすのじゃ」
「そんな飛行機が飛ぶ道理がありませんですよ」
「わしが乗れば、必ず飛ぶんだ。詳《くわ》しいことを説明している暇はないがね、兎に角、そういう飛行機を売ってくれるか売ってくれないか、一体どっちだい」
「売ってさし上げても差支《さしつか》えはないのでございますが、生憎《あいにく》そんなボロ飛行機は只今ストックになって居りませんので……」
「無いのかい。そ、それを早くいえばいいんだ。この忙《せわ》しいのに、だらだらとくそにもならん話をしてわしを引きつけて置いて……ほう、早く行かにゃ、大先生と約束の時間に、○○へ入市できないぞ」
 博士は腕に嵌《は》めた大きな時計を見、例の大きな三つのトランクを軽々と担ぐと、大急ぎで飛行場を出ていった。
 後を見送ったサービス係は、長大息《ちょうたいそく》と共に小首《こくび》をかしげ、
「でも力のある老人じゃなあ。あの大きいトランクを、軽々と担いでいくとは……」
 金博士の姿は、こんどは埠頭《ふとう》に現れた。幸《さいわ》いに八千|噸《トン》ばかりの濠洲汽船が今出帆しようとしていたところなので、博士はこれ幸いと、船員をつき突ばして、無理やりに乗船して、サロンの中へ陣取った。
「もしもし、どなたかしりませんが、もう船室がありませんので」
 事務長がこわい顔をして博士のところへやって来た。
「船室? 船室はあるじゃないか。このとおり広い部屋があいているじゃないか」
「これはサロンでございまして、船室ではありません。御覧の通り、おやすみになるといたしましても、ベッドもありませんような次第です」
「いや、このソファの上に寝るから、心配しなさんな」
「それは困ります。では何とか船室を整理いたしまして、ベッドのある部屋を一つ作るでございましょう」
「何とでも勝手にしたまえ。わしは汽船に乗ったという名目《めいもく》さえつけばええのじゃ」
「え、名目と申しますと……」
「それは、こっちの話だ。ときにこの汽船は何時に○○港へ入る予定になっとるかね」
「はい、○○港入港は明後日《みょうごにち》の夕刻《ゆうこく》でございます」
「何じゃ明後日の夕刻? ずいぶん遅いじゃないか。わしは、そんなに待っとられん」
「待っとられないと仰有《おっしゃ》っても、今更予定の時間をどうすることも出来ません」
「ああもうよろしい。わしは明朝《みょうちょう》には○○港着と決めたから、もう何もいわんでよろしい」
「はあ、さいですか」
 金博士のことを、船内では気が変でないと思わない者は、ひとりもなかった。


     3


 金博士のために、第二二二号の船室が明《あ》けられた。
「これは至極《しごく》覚えやすい船室番号じゃわい」
 博士は、又ぞろ三つのトランクをひっさげてその部屋に移った。ボーイが、そのトランクを持とうとしたら、博士は奇声《きせい》を発して叱《しか》りつけたことだった。
 間もなく夜となった。
 そのうちに、船首でえらい騒ぎが起った。舳《へさき》で切り分ける波浪《はろう》が、たいへん高くのぼって、甲板《かんぱん》の船具を海へ持っていって仕様がないというのであった。そのうちに水夫が三名、船員が一名、その高い浪にさらわれて行方不明となった。
 舳で切り分ける波浪があまり高くて、そのために船員や船具がさらわれたと報告しても、知らないものは信用しなかった。
「なにしろ波浪が、檣《ほばしら》の上まで高くあがるんだぜ」
「冗談いうない。どんな嵐のときだって、舳から甲板の上へざーっと上ってくるくらいだ。檣の上まで波浪が上るなどと、そんな馬鹿気たことがあってたまるかい」
「いや、その馬鹿気たことが現《げん》に起っているんだから、全く馬鹿気た話さ」
 そんな騒ぎのうちに、船橋《ブリッジ》でも秘《ひそ》かなる大騒ぎが起っていた。
「どうも不思議だ。機関部は十五ノットの速力を出しているというが、実測《じっそく》するとこの汽船は四十五ノットも出ているんだ」
「そうだ。たしかにそれくらいは出ているかもしれない。機関部の計器が狂っているのじゃないか」
「どうもあまり不思議だから、今機関部に命じてノットを零《ゼロ》に下げさせているんだがね」
 そのうちに機関部からは、機関の運転を中止したと報告があった。
「なに、機関の運転を中止したって、冗談じゃない。今現に実測《じっそく》によると本船は四十ノットの快速力で走っているじゃないか」
「惰力《だりょく》で走っているのじゃないですか」
「そうかしらん」
 といっているうちに、実測速力計の針は、またまたぐいっと右へ跳《は》ねて、速力四十八ノットと殖《ふ》えて来た。
「いやだね。エンジンが停って、速力が殖えるなんて、どうしたことだ。おれはもう運転士の免状を引き破ることに決めた」
「いや、俺は気が変になったらしい」
「わしは、もう船長を辞職だ」
 わいわいいっているうちに、とつぜん大きな音響と共に、船体はひどい衝動をうけ、ぐらぐらと大揺れに揺れたかと思うと、今度はぱったり動かなくなった。
 さあたいへん。頭が変だと思っていた船員たちは、周章《あわ》てて跳ね起きると甲板へとびだした。
 すると、何というべら棒な話であろう。汽船の前には、美しい花壇《かだん》があった。又汽船の後には道路があって、自動車がひ
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