っくりかえっていた。右舷《うげん》を見れば、町であった。左舷《さげん》を見ればこれも町であった。これは変だ。やーい、海はどこへいった。
船員たちは、一同揃いも揃ってダブルで気が変になりそうであったが、中に気の強い者もいて、本船の位置について鮮《あざやか》なる判定を下した。
「おい、何といっても、これは、わが汽船は○○港の陸上へのしあげたのだよ。ここは○○市だ」
「そんなべら棒な話があるかい。○○港なら、まだ二日のちじゃないと入港できないんだ」
「馬鹿をいえ。お前たちの目にも、ここが○○市だってぇことが分るはずだ。ほら向うを見ろ。幾度もいってお馴染《なじ》みの木馬館《もくばかん》の塔があそこに見えるじゃないか」
「ははん、こいつは不思議だ。あれはたしかに木馬館だ。するとやっぱり本当かな、わが汽船が○○市に乗りあげたというのは」
そんなことをいっているところへ、船室から金博士が現れた。例の三つのトランクを軽々と担いで、舷《ふなべり》を越えて、花園へ下りようとするから、船員がおどろいて博士の傍《そば》へ飛んでいった。
「そんなところから降りてはいけません。第一、まだ税関《ぜいかん》がやってこないのです。トランクの中を調べないと、上陸は不可能です」
「厄介《やっかい》なことを云うねえ。じゃ、今開けるから、お前ちょいと見て置いて、後で税関へ見せるようどこかへ書いておいて貰おう。さあ見てくれ」
そういって金博士は、まるで箱師がトランクを開くような鮮《あざや》かな速さで三つのトランクをぽんぽんぽんと開いてみせた。
「さあ見てくれ」
云い出したからには、事務長、勢いよく赴《おもむ》くところ、何とも仕方がなく、開かれたトランクの内容《ないよう》如何《いかん》と覗《のぞ》きこんだ。が、途端に怪訝《けげん》な面持で、
「もしお客さん。これは税金が相当|懸《かか》りますぞ。いいですか」
「税金なぞかかる筈はない。全部身のまわりの品物だ」
「そうともいえませんね。だって、身のまわり品である筈の洋服もシャツも歯ブラシも見当りませんですぞ。詰め込んであるのは、ラジオの器械のようなものに、ペンチに針金《はりがね》に電池に、それから真空管《しんくうかん》にジャイロスコープに、それからその不思議なモートルにクランク・シャフトに発条《はつじょう》にリベットに高声器《こうせいき》に……」
「いくら数えてもきりがないから、もうよしたらどうじゃ。要するに右に述べたものは全部わしの身のまわり品だから、誤解して貰っては困る」
「尤《もっと》も、新品はないから、商品じゃないということは分ります。ではよろしゅうございます。品名だけはノートして置きますが、まず此場《このば》は税金を懸けないで、お通り願うということにいたしましょう」
「ほう、漸《ようや》く話がわかってきたね」
博士は、その場に引き散らかされた道具を一生けんめい掻《か》き集め、トランクの中に入れて、蓋《ふた》をした。そして軽々と肩に担いだのであった。
「ちょっと待ってください。何だか空《から》のトランクを担いでいられるように見えますね。どれ、ちょっと持たせてみせてください」
事務長がそのトランクをさげてみると、なるほど空のトランクのように軽い。
「はて、面妖《めんよう》な。あれだけ重い道具を入れて、こんなに軽いとは、まるで手品みたいだ。お客さん、あなたは早いところ、あの道具類をトランクから抜いて、どこかへ隠してしまいましたね」
「冗談いっちゃ困るよ。あの身のまわり品はちゃんと中に入っているよ。ほら、このとおり……」
金博士は、わざわざ三つのトランクを、もう一度開いて事務長たちに見せてやった。
道具類は、ちゃんとぎっしり詰まっていた。
「おかしいな」
事務長は、その中《うち》から、小型のモートルを選んで、取り出した。
「おや、このモートルの重さだけでも、トランクより重いくらいだ。すると、或る重いAなる物品を入れたトランクBの総重量AプラスBプラスアルファは、元のAよりも軽い――というのは、どういう算術になるのかしらん。どうも式が成立たんように思うが」
「おい事務長さん。お前さんは中学校で算術の点が優《ゆう》か秀《しゅう》だったらしいね」
と博士はいって、
「だが、わしのトランクに関するかぎり、そのような純真《じゅんしん》な算術は成り立たないのだよ。忙《せわ》しいから説明をしていられないが、しかしこれは事実なんだ。つまり、AはAプラスBプラスアルファよりも大なりという場合が有り得るんだ。この解法がお前さんに分ったら、お前さんに人造モルモットを一匹、褒美《ほうび》にあげてもいいよ」
「へえ、そうですかね。しかし私には、とても分りません。なんとか今、説明していってください」
「そうかね、聞きたいかね。それじゃちょっと説明しようかね」
先を急ぐ筈の金博士は、そこで急にのんびり腰を据《す》えてしまって、
「いいかね。ここにABCDEなる五つの部分品があったとする。いずれも、重さは十キロずつとして、合計五十キロの重さのものだったとする」
「はい、その算術は分ります」
「ところが、そのABCDEの部分品を一処にして測《はか》ると、総重量がたった二十キロしかないんだ」
「そこがどうも分りませんなあ。一つ十キロのものが五個あれば、どんな場合でも総量は五十キロです」
「ところが、それが何とかの浅ましさというやつなんだ。いいかね。ABCDEの部分品をばらばらにして置いて一々測ると総計五十キロある。これはよろしい。その部分品を組合わせて測ると、これがなんと二十キロになる――という場合は、只一つある。それは、その部分品で組立てた器械が、重力打消器《じゅうりょくだしょうき》であった場合だ」
「え、重力打消器というと……」
「つまり、重さの源《みなもと》である重力を打消す器械のことを、重力打消器というのだ。つまり五十キロの部分品から成るその重力打消器は、組立てられることによって、三十キロの重力を打消す性能のものだったんだ。だから五十キロ引く三十キロで、残りは二十キロと出る。どうだこの算術は間違いなしによく分るだろう」
「うへーッ、こいつは愕《おどろ》きましたな」
と、事務長は目を丸くして、
「それで何ですか、貴下のお持ちになっている三つのトランクの内容物は、いずれも重力打消器の全部分品なんですか。で、何でまあ重力打消器を三つも、ぶら下げて歩かれるのですか」
「折角《せっかく》だが、お前さんの想像力は、すこしばかり弱いよ。わしのトランクの中に入っている身のまわり品は、必要とあれば重力打消器を組立てることも出来るし、また必要とあらば、ラジオ送受信機《そうじゅしんき》としても組立てられるし、又或る場合には兵器――いやナニムニャムニャムニャ――で、つまりその又或る場合には、喞筒《ポンプ》みたいなものにも組立てられるのだ。どうだ、魂消《たまげ》たか」
「へー、さいですか。こいつはいよいよ愕きましたな。そしてお話を伺《うかが》っていると、そのトランクがだんだん欲しくなってきましたが、いかがですか、その一つを私にお分け下さるわけには……」
4
「いや、それはまたこの次のことにしましょう。わしは今度は急用でこの○○港にやってきたのでな。商談は、またこの次の機会ということに願います」
そういって、博士は、重力打消器が入っているトランクを軽々と肩にのせて、歩きだした。すると、何思い出したか、事務長がまた追いかけて来て、
「もし、お客さんへ。もう一つ、伺《うかが》いたいことがあるのです。ちょっとお待ちを……」
「ええい、よく停める男だね。もういい加減《かげん》に放してください」
「私のもう一つ伺いたいことは、この汽船が、機関部とは無関係なすばらしい快速を出して○○市に乗り上げてしまいましたが、あの快速ぶりは、お客さんがそこにお持ちのトランクの内容品と、何か関連があるのですかな」
「ああ、そのことか」
博士は、そこに立ち停って、
「それは大いに関係ありじゃ。わしが乗らなきゃ、ああは快速が出るものか。あれはつまり、わしが船室内で、このトランクの中に入っている部分品を組合わせて、一つの強力動力装置《きょうりょくどうりょくそうち》を作ったんじゃ。そしてそれを動かしたもんだから、それであのように、二日半もかかるところを一日で来たんじゃ」
「へえ、やっぱり、さいでしたか」
「実は、わしのあの器械を使えば、汽船もいらないし、飛行機もなくて、ちゃんと快速旅行が出来るのだ。しかしそれをやると、世間の眼についていかんのじゃ。じゃによって、わしは何か尤《もっと》もらしくした乗物に乗ることにしている。それに乗った上で、わしはわしの都合により、あの強力動力装置を組立ててそれを動かし、ちょっと一ひねりやっても、あのような汽船としては快速の部に入る速力を出せるのじゃ。どうじゃ、もうその辺でよろしかろう」
金博士は、庶民《しょみん》階級がすきだと見えて、いつになく短気を出さず、淳々《じゅんじゅん》として丘へあがった船上で、通俗講演《つうぞくこうえん》を一くさりぶったのであった。
「ああそうそう。某国大使館というのは、どこですかねえ」
こんどは金博士の方が声をかけた。
「某国大使館なら、ほら、向うの山の麓《ふもと》に、塔の上にきれいな旗がひらひらしている城のような建物がありましょう。あれが某国大使館です。しかしお客さん? あなた、あそこへお出でになるのでしたら、おやめになるようおすすめします」
「そりゃ何故かね」
「何故って、あの大使館は当時評判がよろしくないんで……。過去一年間に、あの大使館をくぐった者は、総計七千七百七十七人です。ところがあの門を出て来たものがたった四千四百四十四人なんです。不思議じゃありませんか」
「別に不思議とは思われんがのう。算術をすると、すぐ答が出るじゃないか。七千七百七十七人マイナス四千四百四十四人イコール三千三百三十三人と御明算《ごめいさん》が出る。すなわちこの人数たるや、某国大使館内に現に寝泊りしている館員の数である。どうじゃ、簡単な算術ではないか」
「いえ、そうじゃないんで……。あの大使館員は、実数わずかに三百三十二名なんですぞ」
「たった三百三十二名」
「そうです。すなわち、もう一度引き算をいたしまして、三千三百三十三名から引くの三百三十二名は三千一名と答が出来まして、この三千一名なる人間が、奇怪にもあの某国大使館に入ったきり、出ても参らず、館内に生活もして居らずという無理数的《むりすうてき》存在なんです。ですからお客さんも、その無理数の中にお加わりになりませんようにと御注意申上げますような次第で、へい」
「いや、よく分りましたわい。しかしわが金博士に限って、心配は無用でござる。では、さらばさらば」
と、金博士は事務長に挨拶すると、舷《ふなべり》をまたいで、傾斜した船側《せんそく》の上を滑《すべ》り台《だい》のように滑って、どさりと百花咲き乱れる花壇の真中に、トランク諸共《もろとも》尻餅《しりもち》をついたのであった。
5
なにがさて、気の短い金博士のことであるから、身の危険も、相手方の思惑《おもわく》も考えないで、その足でつかつかと某国大使館の玄関から押し入ったものである。
「大先生《だいせんせい》は居られぬか。王水険《おうすいけん》大先生のお部屋はどこであるか。只今金博士が推参《すいさん》いたしましたぞ」
とうとう王水険大先生が朝寝坊の居間が、金博士|自《みずか》らの捜索《そうさく》によって発見せられた。
「やややや、お前は金か。お前の来るのは、まだ二三日先だと思って油断をしていたが、やややや、もう来たか」
王大先生は、喜ぶより前に、愕《おどろ》き且《か》つ呆《あき》れてしまった。
「大先生、おなつかしゅうございますな。ところで、この某国大使館では近々先生の馘《くびき》るという話を御書面《ごしょめん》で承知しましたが、けしからんですなあ。私がこれから某国大使に会いまして
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