、それを思い停らせましょう」
「いやなに、それには及ばないよ。どうせ仕方がないのだもの」
「仕方ないなどと、今の積極時代《せっきょくじだい》に引込《ひきこ》んで居られることはありません。私が大使に強談判《こわだんぱん》をして……」
「いや、そんなことをしても無駄じゃ。わしが馘《くび》になるだけではなく、大使自身も馘になるのだ。大使ばかりではない。参事官《さんじかん》も書記生《しょきせい》も語学将校も園丁《えんてい》もコックも、みんな馘になるのじゃ」
「はて、それは一体どういうわけ……」
「早くいえば、この大使館の本国が亡びるのじゃ。ドイツ軍は、もう間近《まぢか》に迫っている。だからこの某国大使館も解散の外《ほか》ないのである」
「はあ、そんなことでしたか。しかしこれだけ立派な建物を空《あ》き家《や》にするのは惜しい。大先生、私この建物を買ってもいいですよ。全《まった》く惜しいものだ」
と、金博士はあたりをきょろきょろと見廻す。そのときベッドの下から大先生の袖を引く者があった。
「おッ」
その怪しげなる袖引き人間は、外でもなく油断をしてここにベッドを並べて止宿中《ししゅくちゅう》の醤買石《しょうかいせき》委員長であったのである。
「……金博士に見つかればたいへんです。私を窓から逃がして下さい」
醤は泣き声になって、王大先生に囁《ささや》く。
「よろしい、わしの手を見て、早いところをやれ」
と大先生はベッドの下と連絡をとって、やおら金博士の方へ向き、
「天井《てんじょう》のあそこにある彫刻な、あれは中々古いもので、純金《じゅんきん》だよ。よっく御覧!」
「へえ、あれがね」
金博士を向く、王大先生はお尻のところで手を振る。とたんに硝子窓《ガラスまど》が大きな音をたてて跳《は》ねかえった。
「あ、あれは何の音?」
金博士の顔が、さっと緊張した。
「あははは、今のは猫がとび出したのじゃ」
「あれで猫ですか。へえ、おどろきましたな。○○の猫は、ずいぶん大きくて人間ぐらいの大きさがあると見えますなあ」
金博士は、大真面目《おおまじめ》でいった。
窓からとびだした醤は、そのとき運悪く柊《ひいらぎ》の木の枝にひっかかり、顔も手足も血だらけにして歯をくいしばっていたが、金博士の声を耳にしてびっくり仰天《ぎょうてん》、狼狽《ろうばい》する途端《とたん》に、すとーんと地面へ落ちて、いやというほど腰をうちつけた。それでも彼は助かりたい一心で、膃肭獣《おっとせい》の如く両手で匐《は》って、そこを逃げだした。
「とにかく金よ、お前も長途《ちょうと》の旅行で疲れたろう。この寝室を貸してあげるから、ゆっくりひと寝入りしなさい。その間に、われわれは万端《ばんたん》の用意を整《ととの》えることにするから」
「はあ、大先生、お構い下さいますな。どうぞ大袈裟《おおげさ》な用意などなさらぬように……」
「まあいい、この部屋は静かだから、よく睡れるだろう。では、おやすみ。夕刻《ゆうこく》になったら起してやろう」
「はあ、恐《おそ》れ入《い》ります」
王水険先生は、自室を金博士に譲って、そこを出ていった。そして戸口を出るとき、そっと外から鍵をかけることを忘れなかった。こうして金博士を缶詰にして置いて、遅まきながら万端の用意にかかれば夕方までにはこの大使館の始末機関はすぐ使えるようになるだろう。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、後から呼ぶ者があった。それは余人《よじん》ではなく、松葉杖《まつばづえ》をついた醤だった。
「おや、お前、足をやられたか」
「はあ、柊の樹から落ちたものですから。ところで大先生、あいつは何をしていますか」
「ああ金のことか。金は今わしたちの部屋で旅の疲れを癒《いや》すため、一寝入《ひとねい》りさせているよ。実は早いところ空気中に睡眠薬をまいて置いたから、金のやつはもう二十分のちには両の瞼《まぶた》がくっついて、それからあと正味《しょうみ》六時間は、死んだようになってぐうぐう睡ることだろう」
「ああそうですか。それは手間《てま》が省けていい。じゃあこの大使館の始末を借りるまでもなく、余《よ》自《みずか》らが彼の寝室に忍びこみ、余自らの青竜刀《せいりゅうとう》を以て、余自らが彼の首をはねてしまいましょう」
「そうするか。わしのためには、可愛いい弟子だったが、悪に魅《みせ》られた今となっては、泪《なみだ》をふるって首を斬ることにするか。おおもう四十分経った。金のやつ、ぐっすり寝こんでいる頃じゃ」
醤にうまくいいくるめられている王水険大先生は、最高の善事《ぜんじ》をするつもりで、醤を引具《ひきぐ》し、窓下に高梯子《たかばしご》をかけ、それをよじ登って、窓からそっと金博士の様子を窺《うかが》ったのである。
ところが、寝台は空《から》であった。もう一つの寝台も空であった。
「おや、金のやつ、さては逃げたな」
とうとう取逃がしたかと、残念そうに両人が室内を睨《にら》んでいると、ふと目についた物がある。それは一台の小型タンクであった。
「ありゃ、あんなところに、変なものがあるぞ」
「小型タンクなど、誰が持って来たのでしょう」
両人は、不思議に思って、窓から忍びこむと、部屋の真中に置かれてあるタンクに近づいた。
そのタンクは、扉を開こうとしても開かなかった。ただタンクの上に貼紙がしてあった。
「午後四時までこの中《うち》にて熟睡《じゅくすい》する故、何者もわが熟睡を妨《さまた》ぐるなかれ。金博士」
と書いてあった。金博士は、このタンクの中に睡っているのか。そういえばなるほど、どこからか、大きな鼾《いびき》が聞えてくる。
醤と王水険大先生とは、さすがにタンクには手が出しかねて、すごすご退却のほかなかった。だが御両人とも、まさかこの小型タンクが例の金博士の三個のトランクによって構築されたものだとは気がつくまい。金博士の鼾の音は、このとき一段と高くなった。
底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年10月号
※「四谷怪談」における「伊右衛門」の妻は、「民谷岩」とされます。「居谷岩子女史《おいわさん》」と「民谷岩」の関係に疑問が残ったので、当該箇所にママ注記を付しました。
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月15日作成
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