路は、今までの通路とちがい、ずっと明るさを増した。帆村は、注意の言葉を春部に囁く代りに、彼女の肩を軽く叩いて警戒せよとの合図にした。
 二人の歩調は極度に緩《ゆるや》かになった。帆村は全精力を前方に集中している。比較的明るい光が前方の左側から来ることが分った。そのあたりで左へ曲る角があるらしい。しかし右側はそのまま壁が前方に続いていた。その明るさは、雪の降ったような白っぽさがあった。
(あそこまで行けば、必ず何かある)
 帆村は洋杖の柄を握りしめ、いつでもそれを繰出せるように身構えて歩を進めた。
 とうとうその角まで来た。
「呀《あ》ッ!」
 その角のところで、左側へ目を向けた帆村は思わず驚愕の声を放った。何となれば、そこには全く想像も及ばないほどの奇妙な有様が見られたから。
 まず何よりも目をひいたのは、その角から左へ切れ込んで、十尺ばかり奥で壁に突当っているその狭い横丁――幅は今までの通路の半分にあたる三尺ほどの狭さだった――。
 その横丁の左右の壁の異様な構成だった。その壁は左右とも、人間の眉の高さあたりから床までが硝子ばりになっていて、その中に大きな金魚がゆったりと尾鰭をゆすぶって泳いでいるのだった。しかもその金魚というのが、珍らしく白と紫の斑のものばかりだった。
 なお、右側の壁だけには、金魚槽の上が深く引込んで横に細長い棚のようになっており、その中によく磨かれたプロペラのようなものが嵌《は》まっていた。だがそれはプロペラではないようで、中心軸はあったが、翼にあたるところはプロペラのように波状をなしておらず、真直に平面的に伸びていた。よく磁針にそういう形をしたものがあるが、もちろんこれは非常に大きく、長さが六七尺もあった。
(一体何だろうか、これは……)
 帆村には、すぐにこの妙な物品の正体が分らなかった。このプロペラの兄弟分のようなものは、その細長い棚の中にじっとひそんでいて、動き出す様子はなかった。
 奇妙なものは、まだ外にもあった。この横丁は、奥で壁につきあたり、そこから通路は左右に分れていたが、その正面突当りの壁が真赤に塗られていることだった。その壁には煉瓦が見えなかった。煉瓦の上に漆喰を塗り、更にその上に赤いペンキを塗ったものらしかった。
 もう一つ奇妙なことは、その正面の赤い壁が、よく見ると扉になっていた。扉の枠が白いペンキで区劃をつけてあるし、引手もついていた。そしてその扉には、どういうわけか分らないが「戸ろ」と大きく白ペンキで書いてあった。
 左右の壁の金魚槽、右側の壁の中にひそんでいるプロペラまがいの金属体、正面奥の赤い壁と、「戸ろ」と書いた扉! そしてこの横丁だけが、白々とした怪光に照らし出されている!
(一体これはどうしたわけか?)
 さすがの帆村も呆然《ぼうぜん》として、しばらくは春部のことも何もかも忘れて、塑像《そぞう》のように突立っていた。

     10[#「10」は縦中横]

「先生、奥に何かあるようですわ。奥へ入ってみましょう」
 春部の声に、帆村ははっと吾れに戻った。
「あ、危い、待った!」
「ええッ」
「軽率に入ってはいけません。これこそ、この千早館の中の最大の謎なんでしょうから」
「千早館の最大の謎ですって?」
「なんと異様なものばかりが並んでいるじゃありませんか」
 と、帆村は出来るだけ低い声でいったつもりであったが、しかしそれはかなり高く響いた。
「綺麗ですわ。趣味はいいとは、思われないけれど……」
「異様ですよ。グロテスクですよ」
「あの金魚のことをおっしゃるのでしょう、白と紫の斑の……呀《あ》っ、先生どうなすったんです」
「何がです。私がどうかしましたか」
「ああ、どうなすったんです。先生の唇、血の気がありませんわ。紫色よ。気分がお悪いのですか」
 帆村はこのとき春部の顔を見て、愕《おどろ》きのあまり大きく目を見開いた。
「カズ子さん、あなたの唇も紫色ですよ」
「まあ。わたくしの唇も……」
 春部は、大きな声を出そうとして、周章《あわ》てて左手で自分の口を塞いだ。
「だが、もう訳が分りました。心配しないでいいのです。これは光線のせいです。ここを照らしている白っぽい光は、水銀灯が出す光線なんです。紫の方の波長の光線ばかりで、黄や赤の光線が殆ど欠けているから、赤いものでも紫または黒っぽく見えるのです」
「まあ、どうしてそんな気持のわるい光線でここを照らしているのでしょう」
「そこですよ、謎の一つは……」
 帆村は歎息した。
「向うに見える『戸ろ』とは何だ。それんばかりの謎がとけなくてなんの帆村荘六か。戸の『ろ』号だ。『ろ』だ、『ろ』だ。『ろ』は何だ。そうだ、戸の『ろ』号があれば『戸ノい』があってよろしい。『戸ノは』もあってよろしいわけ……『戸い』、『戸ろ』、に『戸は』……はっはっはっ、僕は莫迦だった。なんと頭の働きの悪い男だろう、はっはっはっ」
「せ、先生。どうなすったんですの」
 春部の声に、帆村は自嘲を停め、
「カズ子さん、謎は解けました。全く子供騙しのような謎なんです」
「どうして、それが……」
「私はポン助だから、今気がついたのですよ。いいですか。ここは千早館でしょう」
「ええ、そうです」
「千早ふる神代もきかず龍田川――知っていますね。小倉百人一首にある有名な歌です。その下の句に、からくれないに水くぐるとは[#「からくれないに水くぐるとは」に傍点]とあるではありませんか。からくれない[#「からくれない」に傍点]とは、正面奥の、あの真赤に塗った壁です。水くぐる[#「水くぐる」に傍点]とはこの水族館です。左右の金魚槽の間を脱《ぬ》けて奥へ進めば、水くぐる[#「水くぐる」に傍点]です。最後の『とは』はすなわち『戸は』です。正面に見ているのは『戸ろ』だから、その隣りに『戸は』がある筈です。その『戸は』を開け――というのがこのところに集められた謎の解答なんです。行ってみましょう、この奥にある筈の『戸は』のところへ。それからきっと、秘密の間に続く道があるんでしょう」
 帆村は謎を解き捨てた。
「綺麗な答えですわ。やっぱり奥へ行けばいいのでしたわね」
 春部は身を翻して奥へ駆入ろうとする。それを帆村が呀っと叫んで引戻した。
「待った、恐ろしい関があるんだ。この水銀灯の光だ。カズ子さん、このままあなたがこの小路を奥へ駆込めば、あなたの首はすっとんで、あたり一面はそれこそ唐紅《からくれない》ですぞ」
「まあ、恐ろしいことを仰有る」
「これを見てごらんなさい」
 帆村は前へ三歩進んで、洋杖を前方へ斜に突出し、それから徐々にその洋杖を奥の方へ深入りさせた。すると発止と音が鳴ったと思うと鋼鉄製の洋杖が石突のところから五寸ばかりが、すっぱりと切れて飛び、壁にあたってから下に落ちた。春部はびっくりしたが、訳が分らない。
 すると帆村は、洋杖を一旦引いてから、右側の壁にひそんでいるプロペラの兄弟みたいなものを指し、
「こいつが曲者なんです。こいつはここにひそんでいると見せて、実はあの軸を中心に、すごい勢いでプロペラのように廻っているのです。それがわれわれに見えないで、じっと静止しているように見えるのは、水銀灯のいたずらです。この水銀灯は恐らく千分の一秒だけ点火し、あとの千分の一秒は消えているのでしょう。そして千分の一秒点火したときだけ、ここを照らし、あの殺人回転刀――あのプロペラの兄弟のようなのがそれです――殺人回転刀を照らすのです。そのとき回転刀は、いつもあの位置にいるのです。つまり回転刀があの通り壁の中に入ったときに、水銀灯はちかっと光るのです。そうなると回転刀はあそこに静止しているように見えます。元来人間の眼は、残像時間が相当永いので、一秒間に二十四回以上断続する光は、それが断続するとは見えず、点《つ》け放しになっているように感ずるのです。だから、あのように一秒間に千回も断続する光があっても断続するとは感じないんです。春部さん。あの殺人回転刀の刃は、われわれの目には見えないが、そこに見える小路一杯に廻っているのですよ。だから今あなたがごらんになったように、洋杖の先がこのとおりすっぽりと切られたんです。このとおり切口は鮮かです。これじゃ軟い人間の首なんぞ一遍にちょん切れてしまいますよ」
 そういって帆村が見せた洋杖の先の切口は、磨いたように綺麗に斜めに切断されていた。春部の顔は真青になった。あのとき帆村がすぐ手を伸ばして自分を引停めてくれなければ、自分の前の小路の床を唐紅に染めていたことであろう。
「さあ、私についていらっしゃい」
「え、あなたは奥へいらっしゃるの。生命をお捨てになるんですか」
「なあに、この下を潜れば危険はないのです。千早ふるの歌に、水くぐれ[#「水くぐれ」に傍点]と示唆しているじゃありませんか。つまり腰を低くしてそこを通れば、水槽の間を抜けることになるから、それで安全だというわけです。さっき私はまだそのことに気がついていなかったんです」
 帆村のする通りにして、春部も恐ろしき回転刀の下を無事に向こうへ通り抜けることが出来た。からくれないの壁にぶつかり、左を見ると、「戸ろ」に並んで、果して「戸は」と記した扉があった。
 躊躇なく、帆村は「戸は」の前に立った。扉の引手に手をかけて引いた。扉は苦もなくがらがらと開いた。すると犬くぐりほどの穴があって、その穴を通して中に広い部屋が見える。
「この中ね」
「いや、これも気に入らない、この部屋の照明も、さっきと同じ水銀灯だ」
 なるほど例の気味の悪い白っぽい光だ。
 帆村は洋杖を取直して、そっと犬くぐりの穴から中へさし入れた。
 ぴしりッ。再び手応えあって、洋杖の先は飛んだ。
「念入りな首斬り仕掛けだ。おお危かった」
 と帆村は首をおさえて身慄いした。
 また一命を拾ったのはいいが、折角勢いこんだのに、館内の安全な部屋への入口が分らない。まだ何か、解き切っていない謎があるのか。
 帆村はそこで、例の千早ふるの歌を、声に出して誦んでみた。
「千早ふる、かみ代もきかず、たつた川、からくれないに水くぐるとは……」
 分らない。上の句に謎があるのか。
「その歌、在原の業平朝臣の詠んだ歌ね」
 そういった春部の言葉が終るか終らないうちに、突然すぐ左の壁が動き出してすうっと引戸のように横手に入ってしまった。そしてその向こうに廊下がひらけ、そして階上へつづいた階段が見えた。灯火は普通の電灯であった。
「これだ。これが探していた最後の通路だ。入りましょう、春部さん」
 帆村は、短くなった洋杖を、今開いた引戸の敷居にしっかり嵌《は》めこんだ。この秘密の引戸が再び閉まらないようにするためであった。
 帆村の手にも、今やピストルが握られた。
 二人は臆する気色もなく階段をあがって行った。すっかり貴族の部屋らしい飾りつけであった。住居区がここであるのは最早疑いを容れなかった。
 階段を上ってから、厚い絨毯《じゅうたん》の上をずんずん奥へ進むと、紫色の重いカーテンが下っている前へ出た。
 そのときカーテンの奥に人の気配がしたと思うと、
「野毛さん、帰って来たの」
と、女の声がした。[#天付きはママ]
 その声に帆村は、胸を躍らせた。
(田鶴子の声だ!)
 帆村はすかさず返事をした。
「へい、遅くなりやして……」
「仕様がないね。あたしが替りに怒られているのよ。早く謝ってよ」
「へいへい。――どうぞお手をおあげ下さい」
 と、帆村はピストルを構えてカーテンの脇からぬっと入ったものの、彼は危く気が遠くなるところだった。その場の異様な光景! いや、世にも恐ろしき舞台面だ!
 大きな純白の絹を伸べたベッドがある。そこに上半身を起している死神のような顔をした痩せ衰えた男。それと、その横に寄り添っている凄艶なる女性――それこそ田鶴子に違いなかったが、気味の悪い死神のような病人は何者?
 田川勇ではない。
 帆村のピストルが見えぬか、二人の男女は平然としている。男の手にあるシャンパン用の硝子盃へ、女は銀色の大きな容器から血のように真赤な酒をつぐ。
 男
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