く千切った布片のようなものが浮いている。
(もしあれが、本当に田川の服の裏地だったとしたら[#「だったとしたら」は底本では「だったとした」]、どういうことになるのか)
 帆村は、それが極めて稀《まれ》な場合だと思いながらも、考えてみないでいられなかった。そのとき春部はその布片を更に採取するために竹竿を身構えた。
「あ、お待ちなさい」
 帆村が突然大きな声を発した。春部は愕いて帆村の方を振返った。
「……よくごらんなさい。あそこを。あなたのいった布片は、静かに池の底から浮き上がって来るのですよ。よく見てごらんなさい」
 なるほど帆村のいうとおりだった。毛のような黒いやつが、灰白色の水の中から静かに水面へ浮び上って来て、やがて静止するのであった。春部の愕きは大きかった。
「見えますわ。でも、どうしてでしょうか。……まさか田川の死骸が池の底に沈んでいるのではないでしょうね。ああ……」
 春部は、そうでないことをひたすら祈った。
「そうではないと思います。仮りに池の中に田川君の死骸があったとしても、着ている服の裏地があんなにこまかくぼろぼろになって、池の面へ浮きあがって来るためには、少くとも死骸が一年以上経ったあとでなくては起らないですよ。それも、特別に池の底をかきまわしたときに限るので、水が静かになれば、あのような布片もとっくの昔に水と同じ比重になっているから浮いて来ないものなんです。浮いて来る以上は、池の底を何者かがかきまわしているか、さもなければ……さもなければ、あの布片は極く最近、破れやすい新聞紙か何かに包んで池の中へ投げこまれ、その紙包が破れたため、まだ水を十分に含んでいないあの布片は水よりも軽いからああして浮き上って来る――この二つの場合しか考えられないですね」
 帆村のこの分析を、春部は感動を以て聞き取った。
「すると田川の死骸は、今池の底に沈んでいないと断言なさるのですか」
「そういう理屈になるというわけです。恐らくそれに間違いありません。が、何故あのように裏地の布片が中から浮いて来るか、この説明は今直ぐにつかないですね。しかしこれは直接田川君の死を決定するものではない。田川君の生死の鍵は、むしろあの千早館の中にあるのだと思います。それも今、相当切迫した状態にあると思うんです。ですから春部さん、池の方は今はこれくらいにして置いて急いで私たちは千早館の中へ入ってみましょう。もちろん冒険ですよ。しかしわれわれは今、冒険を必要とする要路にさしかかっているんです」
「ええ、分りました。では千早館へ行きましょう」
 と、春部はきっぱりいって、手に持っていた竹竿を草叢に落とした。

     8

 帆村は、小型のピストルを春部に渡した。帆村の手にはさっきまでは望遠鏡の役目をしていた洋杖が元の形に返って握られていた。
 二人は大まわりをして、千早館の真裏に当る山側から塀を越えて構内へ入った。それから壁伝いに玄関の正面に廻った。玄関は館内へ引込んでいて、四坪ほどの雨の懸らない煉瓦敷の外廊下があった。そのずっと左の隅に立って手を上に延ばすと、玄関の扉と同じ面にある壁の装飾浮彫の紅葉見物の屋形船に触《さ》わる。田鶴子が爪先《つまさき》を伸ばして、屋形船の上を指先で探っていたのを、帆村は望遠鏡の中で認めた。それだから彼は今、同じことを試みた。その屋形船に乗合っている男女の頭を一つ一つさぐっているうちに、短冊《たんざく》を持って笑っている烏帽子《えぼし》男の首が、すこしぐらぐらしているのを発見した。これだなと思い、その首を指で摘まんであちこちへ押してみるうちに、首は突然楽に壁の中に引込んだ。
「あっ、先生。壁が……」
 春部が帆村の腕に縋《すが》りついた。見るとすぐ傍の壁が煉瓦を積んだなりに、寄木細工を外すようにその一部が引込んで行く。あとには高さ六尺ばかり、人の通れるような穴が明いた。と、内部から響き来る異様な音響が、二人の耳を突いた。それはリズムを持っていることが分った。
「あ、音楽だ。あなたが朝聞いたのはあれでしたか」
「ああ、そうです。あの曲は田川の作曲したものですわ。“銃刑場の壁の後の交響楽”」
「カズ子さん、入りましょう。その穴の中へ入るのです」
 帆村は春部を左腕で抱き、壁穴を中へ飛び越えた[#「壁穴を中へ飛び越えた」はママ]。急いであたりを見廻わすと、そこは天井の高い、曲面の壁をもったがらんとした部屋だった。……ぱたんと音がして、部屋の中が闇となった。二人の背後に、壁穴が閉じたのである。
 春部は、力一杯帆村に獅噛《しが》みついた。帆村の指先に力がぐっと入ったのが春部に分った。
 無気味な、銃刑場の壁の後の曲が、化け蝙蝠《こうもり》のように暗黒の空間を跳ねまわる。――と、その部屋が、薄桃色の微かな光線で照明されているのが、二人に分った。闇に目が慣れたせいであった。
「どこでしょう、あの音楽を鳴らしているのは……」
 春部が声を忍んで、帆村に話しかけた。
「地の底から聞えて来るようですね。あなたは感じませんか、足の裏から振動が匐いあがって来る」
「ええッ……」
 春部は愕いて帆村の胴中を両腕で締めた。足が慄えている。
「ふしぎだ。いよいよふしぎだ」
 帆村の声が、別人のように皺枯《しわが》れた。
「えッ、何がふしぎ……」
「さっきあなたも塀の外で見たでしょうが、この建物への電気供給は断たれている。それにも拘らず、ほらあの通り、薄赤い光で照明されており、それから電気蓄音器も鳴っている……」
「あれはこの館の中で演奏しているんじゃないんですの」
 春部にとっては、その方が気懸りだった。田川がこれに幽閉されて、あの奏楽を指揮しているのではなかろうか。
「ふしぎだ。この建物の中には暖房設備があって、部屋を温めている。煙突一つ見えず、もちろん煙もあがっていなかったのに。……すると電気暖房かな。それにしては配電線が断たれているではないか。一体どうしてこのエネルギーを得ているのか」
 帆村は、これらのエネルギー源の追求に、彼の全精力をふり向けている。
「分らない。他の部屋を探すのだ」
 やがて帆村は、はき出すようにいった。そして春部の手を引いて、部屋の中を歩き出した。どこにも扉はない。部屋の片隅から、向こうへ伸びている廊下があるばかり。
 必然的に、その廊下を行くより外に途はなかった。帆村は、再び春部を抱えるようにして、その廊下へ進み入った。幅は一間ほどのその廊下だった。壁は同じ赤煉瓦を厚く積み重ねてある。叩けば、それとすぐ分った。何の特徴もない。天井はおそろしく高くて、二十尺はあるだろう。暗いのでよく分らないが、やっぱり煉瓦らしい。煉瓦をどんな方法であんなところへ貼りつけるのだろうか。
 廊下はところどころで曲っていて、長かった。二三度そういう角を曲った後で、帆村は急に足を停めて、春部に囁いた。
「カズ子さん。どうやらこれは普通の廊下でなくて、迷路のようですよ」
「メイロというと……」
「今朝バスで一緒になったお婆さんがいったでしょう。千早館の中には八幡の藪しらずがあるとね。その八幡の藪しらずというのがこの迷路なんですよ。待って下さい。思い出しかけたことがある……」
 と、帆村はそこで暫く薄あかりの中に沈思していたが、やがて元気を加えて語り出した。
「むかし古神君は、迷路の研究に耽《ふけ》っていましたよ。彼は主に洋書を猟《あさ》って、世界各国の迷路の平面図を集めていましたが、その数が百に達したといって悦んで私たちにも見せました。……この千早館の中に迷路があるのは、だからふしぎではない。が、早く知りたいのは、彼がどんな迷路を設計したかということです。さあ、先へ進んでみましょう」
「ええ」
「あ、ちょっと待って下さい。迷路を行くには定跡がある。これはあなたにお願いしたい。春部さん。あなたの左手は自由になるでしょう。その左手で、このチョークを持って、これから通る左側の壁の上に線をつけていって下さい。必ず守らなければならないことは、チョークを絶対に壁から離さないことです。いいですか」
 そういって帆村は、ポケットの奥から取出したチョークを手渡した。それは緑色の夜光チョークというやつであった。
「なぜそんなことをしなければならないんですか」
「迷路に迷わないためです。その用意をしなかったばかりに、迷路に迷い込んで餓死した者が少くないのです」
「まあ、餓死をするなんて……」
「気が変になるのは、ざらにありますよ。さあ行きましょう。もし、チョークのついているところへ戻って来たら、知らせて下さい」

     9

 迷路は、とても長かった。
 ようやく元のところへ戻って来たので時計を見ると、一時間五分経っていた。
 帆村はそこで小憩をとることにした。彼はオーバーのポケットから、チョコレートとビスケットを出して、春部の手に載せてやった。そしてなお小壜に入ったウィスキーを飲むようにと彼女に薦《すす》めた。
「何も異状はなかったようね」
 春部は、新しいチョコレートの銀紙を剥きながらいった。
「さあ、それはまだ断定できないです。今のは迷路を正しい法則に従って無事に一巡しただけなんです。これからもう一度廻ってみて、この迷路館が用意している地獄島を見付けださねばならないんです」
「何ですって。地獄島とおっしゃいましたか」
「いいました。地獄の島です。迷路の或るものには“島”というやつが用意されてあるんです。この島へ迷い込んだが最後、なかなかそこを抜け出すことが出来ないんです」
「わたくしには、よく意味がのみこめませんけれど……」
「島というのはねえ、そのまわりについていくらぐるぐるまわっても、外へは出られないんです。そうでしょう、島ですからね。当人にそれが島だと気がつけば、そこで道が開けるんです。向いの壁へ渡っていけば、島を離れて本道へ出られるチャンスが開けるからです。しかしそれに気がつかないと、いつまでも島めぐりを続けて、遂には発狂したり斃《たお》れたりします」
「先生は、千早館にそのような島のあることを予期していらっしゃるんですか」
「有ると思いますよ。古神君は、迷路の島には異常な興味を沸《わ》かしていましたからねえ」
「島がみつかれば、どうなるんでしょう。そういえば私たちは、田鶴子さんの姿を見つけなかったし、田鶴子さんの憩《いこ》っている部屋も見かけなかったですわねえ」
「そのことです。島を探しあてることが出来たら、そこに何かあなたの疑問を解く手懸りがあるだろうと思っています」
「田川の居る場所は? いや、田川の死骸のある場所といった方がいいかも知れませんが……」
「まず迷路の島を。島が分れば田鶴子の居所が分る。田鶴子に会えば、田川君の所在が分る――と、こういう工合に行くと思うんです」
「まるで歯車が一つ一つ動き出すようなことをおっしゃいますのね」
「でも、今は、そういう道しか考えられないんですよ。もしもその間の連絡が切れているとしたら、捜査にも恐るべき島が――いや、そんなことはあるまい。連絡はきっとつく」
 それから間もなく二人は、同じ迷路に再び入った。こんどはチョークを使わなかった。前に通ったときに春部がつけた夜光チョークの痕が、うすく蛍光を放って続いていた。春部にはなんだかそれがたいへんいじらしく見え、はからずも勇気を奮い起こす縁《えにし》となった。
 帆村の期待は外れなかった。両側とも蛍光の筋のある壁を見ながら前進して行くと、三四丁ほど歩いたと思われる頃、三つ股の辻を渡ったところで右側の壁に筋のついていないのを発見した。それこそ島に違いなかった。
 帆村は春部を促して、島の側に渡って、こんどは右手に持った洋杖の先で壁を辿りながら尚も前進していった。
 すると壁は、鍵の手なりに忙しくいくたびも曲った。帆村は、恐ろしい予感に身慄いした。そして春部の耳に口せ寄せて、彼女が右手でピストルを身構える必要のあるところへ近づいたことを告げた。
 彼女はいわれる通りにした。
 それから一つの角を曲ったとき、急に例の音楽の音が高くなった。と、その通
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