強い決意の色が閃いていた。
 散歩者のような調子で、二人は塀の前を静かに通って行った。だが二人は、その英国の古城風の煉瓦の塀が三ヶ所において崩れているのを、素知らぬ顔で見て過ぎた。それに反して、正面の厳《いか》めしい鉄門も、裏口にある二つの潜り門も共に損傷がなく、ぴったりと閉ざされていて、一部には錆《さび》が出ているのを発見した。本館は塀と門内の木立とに遮られて、窺うことが出来なかったが、中はひっそり閑としていた。
 そのまま千早館の前を通り過ぎた二人は、やがて同じ道を引返して来た。そしてこんどは崩《くず》れた塀の前に足を停《と》め足場を調べた上で、二人は一向に悪《わる》びれた様子もなく、煉瓦の山を踏みわけて、塀の内に入った。
 と、千早館の本屋は、今やあからさまなる姿を見せて二人の前に立った。
 緊張に、二人とも声が出ない体であった。遠くから見たとは又別の感じがする本館であった。遠くから見たときは異臭|紛々《ふんぷん》たる感じがする臓腑館のように見えたものが、こうやって間近に寄って眺めると、どういうわけか非常に落着いた優雅な調子のものに見えるのだった。煉瓦の色もそれほど赤過ぎることはなく、むしろその表面が白茶けて見えるのであった。何か灰のようなものが附着しているようにも思われる。煉瓦と煉瓦をつなぐモルタルは、ところどころすごく亀裂《きれつ》が走っているが、いかにも廃屋らしく見える。
 この本館の玄関の大戸は、手のこみ入った模様の浮彫のある真鍮扉であったが、これはぴったりと閉っているばかりか、壁との隙間には夥しく緑青《ろくしょう》がふいていた。そして浮彫の上には、白く砂だか灰だかが積《つ》もっていて、ここ何年もこの扉が開かれた様子はない。
 帆村は、手袋をはめた手でもって、表扉の把手――それは黄金色の紅葉が散らしてあったが、それを握って廻してみたり、引いたり押したりしてみたが、扉は微動だにせず、ここから入ることの困難なることを示した。帆村は把手から手を放してからカズ子の方を振向いて、軽く肩をすぼめて見せた。カズ子は、よく分りましたという風に二三度肯いた。
 どこか他に入れる戸口があるのだろうと思った帆村は、カズ子を促《うなが》して建物について、ぐるぐる廻ってみた。裏手には確かに三つの出入口があったが、いずれも重い小鉄扉が下りていて、侵入を阻《はば》んでいた。しかも錆ついていて、ここ何年かそれらの扉が開かれたことがないのを語っていた。その先を建物についてなおも廻っていると、元の玄関の前へ出た。これで一巡したのである。三四丁もある遠道をしたような気がした。雑草が足をしばしば奪ったせいでそう感じたのかもしれないが……。
「どの戸口も開かれた様子がない。ふしぎだなあ」
 と帆村は、春部を振返った。
「でも、これまでにこの千早館を訪れた人は、中へ入ったんでしょう。それならば、どこかに入れる口がある筈ですわねえ」
 春部は、中に入らずには引返さない決意と見える。
「その理屈は尤もです。ではその実際的な入口を探しましょう。窓からでも入るのかな」
 二人は窓を見上げながら、もう一度千早館の周囲を廻ってみた。
 ところが、奇妙なことに、この建物には窓というものが極めて少かった。この大きな建物に、たった六つの窓しかついていなかった。しかもその窓は、背の届くようなところにはなく、地上から四五十尺もある高いところにぽつんぽつんとついていて、それも縦に長い引込んだ窓であって、明かりを取る窓というよりも建物の飾りについている釦《ボタン》のように見えた。
 そしてその窓という窓が、いずれも外から鎧戸でもってぴったりと閉っていて、空気はもちろん明かりも、中へは入るまいと思われた。従って、その窓を通じて、この建物の中に入ることは、まず不可能だと思われた。
「どこにも、忍びこむのに都合のよい窓がありませんね」
 館の裏手の雑草の中に立って、帆村はがっかりした声を出した。
「でも、どこかに入口がある筈ですわ」
 春部は、先と同じことをいった。
 それから二人は、黙《もく》したまま、その場に突立っていた。そのうえいうべき別の言葉を互いに持合わさなかったからである。
 が、二人が黙してから間もなく、帆村は愕きの表情になって、突然口を切った。
「あ、気のせいだろうか。地鳴《じな》りがしたようだが……。春部さん、あなたは今、地鳴りを聞きませんでしたか、地鳴りでなければ、エンジンの唸《うな》りを……」
「なんだか聞えましたね。でも、わたくしは奏楽《そうがく》だと思いました」
 カズ子は眉をあげて帆村の顔を見上げた。
「奏楽ですって……。はてな、もうなにも音がしないようだ。ふしぎだな」
「わたくしにも、もう聞えません」
「さっきは確かに音がしたんだ。どういうわけだろうか」
 二人は気味わるさに、背筋に水を浴びたように感じた。
 もしもこのとき、二人が千早館の表側に立っていたとしたら、彼らは意外の収穫を得たであろうに……。それは二人の不運だった。
 だから、それからしばらく経って二人が本館の正面へ廻ったときには、或る事はもう終っていて、何の異常も存しなかった。二人はそこで一先ずここを去ることにして、元の塀の崩れたところから外へ出た。
「あれをごらんなさい」と帆村が洋杖《ステッキ》をあげて、裏口に近い塀の傍に立っている電柱を指した。
「電線があのとおりぷっつり切れています。千早館への電気の供給は、あのとおり電線が切られたとき以来|停《とま》っているのですよ」
「すると、あの建物の中は電灯もつかないから真暗なわけね」
「ま、そうです。従って、さっきわれわれが聞いた音は、配電会社には関係のない音だということになる」
「そんなことが何か重大な事柄なんですの」
「いや、それは私の頭を混乱させるばかりです。うむ、ひょっと[#「ひょっと」は底本では「ひっと」]するとこれもわれらへの挑戦かもしれないぞ」
「挑戦ですって、誰からの挑戦? そんなことは今までにちっとも仰有らなかったのに……」
「それはそうです。この千早館のまわりをぐるぐる廻っているうちに、ふとそれに気がついたのです。春部さん、これはいよいよ油断がなりませんよ。さあ、どしどしすることを急ぎましょう」

     6

 帆村は急に先を急ぎ出した。
 彼は千早館の前に通っている道を奥へ取って、老婆の話にあった、聖弦寺《せいげんじ》を一覧した。それは今にも化けそうな荒れ寺であった。ぷうんとする黴《かび》くさい臭気を犯して、中へ入ってみたが、どの部屋もみな畳はみんな腹を切ってぼろぼろでここで炊事をしたり泊ったりすることは、出来ないことを確めた。
(では、田鶴子がこの土地へ来ているものなら、必ずあの千早館へ入りこんでいるに違いない。どこかに、あの女が出入りしている秘密の戸口があるに違いない。よし、それでは正攻法だ)
 帆村の肚《はら》は決った。彼は千早館の前を通りぬけ、どんどん反対の方向へ春部を連れていった。約五丁ばかり東南へ行ったところに、下に池を抱えた一つの丘陵があって、松の木が生い繁《しげ》っていた。その丘陵へ帆村はずんずん登っていった。
「ここならいい。これから我慢くらべだ」
 春部が聞き返したが、帆村は、しばらく自分のすることを見ていれば分るといって、彼の持っていた洋杖《ステッキ》の分解を始めた。
 まず洋杖の柄を外し、あとの棒をがたがたやっていると、それはいつの間にか三脚台に変った。次にその洋杖の柄を縦に二つに割ったが、それを見ると、中には筒に入ったレンズやその他いろいろな精巧らしい器具がぎっしり填《つ》まっていた。帆村はその中からいくつかの器具や部品を取出し、それを三脚台の上に取付けた。もう誰の目にもはっきりそれと分る望遠鏡が出来上った。帆村はクランプをまわして望遠鏡の仰角をあげると、その焦点を調整した。
「ああ、千早館をここから監視なさるのね」
「そうです。今、よく見えています。交替で監視を続けましょう。そして、もし誰かが千早館を出入りするようだったら、それはどこから出入りするのか、よく見定めるのです。……しかしこの仕事は退屈ですよ。まず三十分交替としましょう。始めはもちろん私がやります。あなたはそれまでぶらぶらそこらを歩くなり、草の上で仮眠《うたたね》をするなり好きなようになさい」
 この仕事が如何に退屈なものであるかは、それからいくばくもなくして二人によく分った。さすがの帆村も、二時間目には退屈して下の池まで下りて散歩をした。それから戻って来た彼は、カズ子と、見張りを交替して、池の話をした。
「変った池ですね。水が牛乳のように白いですね。多量に石灰を含んでいる。しかしこの辺は他に石灰質のところを見かけないんだが、あの池だけが石灰質の池なのかなあ。そんなことは有り得ないと思うが……」
 そんなことをいわれたので、春部カズ子はその池へ興味を持って、下へ降りていった。
 その春部は十五分ほど経つと、息をせいせい[#「せいせい」はママ]切って帆村のところへ駆け登って来た。
「た、大変よ。恐ろしい発見をしたんです。ちょっと来て下さらない、池のところまでですの」
 春部はこれまでいつも面憎《つらにく》いほど取澄《とりすま》していたが、このときばかりは若い女子動員のように騒ぎ立てた。
「困りましたね。なにか重大なものを発見したらしいが、この千早館の監視は一秒たりとも中断することが出来ないのです。一体何ですか、あなたの発見したものは……」
「あの人の着ていた服地です」
「えっ、何といいました」
「田川のいつも着ている服の裏地なんです。それがこまかく切られて、鋏《はさみ》でつまんだ髪の毛のようになっているんですが、それが池の中に浮いているんです……」
「間違なしですか。見誤りじゃないでしょうね」
「いいえ、決して間違いではありません。わたくしは念のために、竹を拾って池の水に漬《つ》け、そのこまかく切られた服の裏地をそっと引揚げたのです。これがそうです。この瑠璃《るり》色とくちなし[#「くちなし」に傍点]色と緋色の絹糸を、こんな風に織った服の裏地は、わたくしがあの人へ贈ったもので、他にはない筈のものです。どうしてあの人の服の裏地が、あんな池の中に浮いていたのか、ああ、恐ろしい……」
「なるほど。そうだとしたら、これは重大だ」
「ねえ帆村さん。千早館の入口を探すよりも、あの池をさらえる方が急ぎますのよ。もしもあの池の中に、あのひとの死骸が沈んでいたら……ああ、いやだ、いやだ」
「お嬢さん。気を鎮《しず》めなければいけませんよ、まだ、そう思ってしまうのは早い……」
「でも、わたくしは、もうじっとしていられません。下へ行って人を呼んで来て、あの池をさらって貰います」
「待ちなさい、春部さん。今が大事なところだ、私が――」
 といいかけた帆村は突然口を噤《つぐ》んだ。彼の全身の関節がぽきぽき鳴った。彼は望遠鏡にのしかかった。喘ぐように、彼の大きな口が動いた。
「……分りました。千早館の入口が……」
 帆村は望遠鏡から目を放して、歓びの色を隠そうともしなかった。
「今、ねえ、たしか田鶴子と思われる女が外から戻って来て、千早館の中へ入っていったのですよ。玄関の脇に、巧妙な仕掛がある。あんなところから自由に出入りしていたんです。さあ、急いで行ってみましょう」
「どっちへ行くんですか。千早館ですか、池の方ですか」
「ああ、池……。池へ行ってみましょう」

     7

 帆村は実は心の中で春部の感傷を笑っていた、下の池の面に浮いていた絹の小さな破片が、田川の服の裏地に違いないなどという彼女の感傷を……。
 だから彼としては、千早館の入口を見付けた今、急いで千早館へ駈付けたい気持であった。しかし春部の思いつめた顔を見ると、池の方を後廻しにともいえなくなって、帆村は遂に、池を先に調べることにした。
「先生。ほら、あの水面に、まだいくつも浮いていますのよ。お分りになります」
 春部は、さっき使った竹竿を再び手にして水面を指す。なるほど、こまか
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