以来、千早館の話は聞かなかったし、またそんな建築物のあったことも忘れていたが、それが今、失踪した田川勇の日記の中から拾い上げられたのだった。
 だがこのときの帆村荘六は、千早館と田川勇とを結びつけて考えるほどの突飛さを持ってはいなかった。そして次は一転して、四方木田鶴子の動静について調査を始めたが、これとて千早館と田鶴子とを結びつけてのことではなく、失踪した田川が最近日記帳までに彼女のことを記してさわぎたてているので、或いは田鶴子の動静よりして田川の行方についての示唆が得られるのではないかと思ったのである。
 ところが、田鶴子の身辺を洗ってみると、思いがけなく多彩な資料が集った。まず第一に田鶴子は三月二十四日――つまり田川の遺書にある日附の前日に東京を後にして旅に出掛けていることが分った。これは彼女の住居の周囲から確め得たことである。その行先は残念ながら知っている者がそこにいなかった。しかしよく旅に出ることがあり、一週間ぐらいすると帰宅するのが例であると知れた。
 第二に、キャバレの関係を丹念に叩きまわった結果、怪しいことを聞き出した。それは過去半年あまりの間に、田鶴子に対して情念を非常に燃やして接近していた若い男の中の五名ほどが、揃いも揃って予告なしに突然このキャバレから足を引いたことであり、しかも彼等は帝都の他の踊場にも全然姿を見せないとのことだった。そしてそのキャバレでは、田川勇が今にも姿を消すだろうという噂をたてていたが、それがどうやら本当になったろうし、ここ数日ぱったり顔を見せなくなったといっていた。
「今頃は、田アちゃん、おそろしい女蜘蛛に生血を吸いとられているんだろう」
 と、楽士のひとりがいいだしたとき、指揮者の森山は顔色をかえて、
「あ、いけないよ、そんな不吉なことをいっては……」
 と、両手を振った。
 第三に、四方木田鶴子が去る二十四日、上野駅から栃木県の那谷駅までの切符を手に入れて出掛けたことが分った。これは田鶴子がよく行く割烹料理店の粋月《すいげつ》から聞き取ったものであったが、この切符はその粋月の料理人の野毛兼吉が買って来たものであった。田鶴子は間違いなく二十四日の昼間上野駅を出発した。ところがその同じ日の夜、兼吉も暇を貰って郷里の仙台へ出発して、まだ帰って来ないという。しかし粋月の雇人の中には、兼吉も実は田鶴子と同じ目的地へ行ったんではないかと噂をしている者があった。
 兼吉とは何者ぞ。親の代からの料理人で、この粋月に流れこんで来たのは七八年前で、今年四十二になる男だという。その他のことは分らない。
 こんなわけで、結局帆村は、田鶴子の跡を追うことにしたのである。それで春部カズ子を連れて那谷駅で下車したんだが、この那谷駅で下車するということは、もう一つ別の方向よりする示唆[#「する示唆」はママ]があった。それは例の千早館に赴くのはこの駅で下車するのが順路であり、そして千早館は駅前から出る黒岳行のバスに乗り、灰沼村で降りるのがよいと分っていたのである。
(田鶴子は千早館へ行ったのに違いない)
 帆村は確信をもって、そう解釈していた。

     3

 灰沼村の停留場で下車したのは、帆村と春部の二人の外に、土地の人らしい一人の老婆があった。この三人が、バスが行ってしまった後に残された。
「お前さんがたは、又千早館へ行く衆かね。やめたがいいね。悪いことはいわないよ」
 婆さんは、胡散くさそうに帆村とカズ子を見くらべていった。
「あ、お婆さん。親切にいってくれて、ありがとうよ。千早館の評判が高いもんだから、私たちもちょっと好奇心を起して見物に来たんだが、そんなにあそこは危いところかね」
 帆村は馴々しく老婆に話しかけた。
「行かないがいい、行くんじゃないよ。悪い怨霊《おんりょう》が棲んでいるところだよ、村の者はそれを知っているから容易に近寄らねえが、都の衆はずかずか入り込んで皆怨霊の餌食になっちまうだよ」
 老婆は恐ろしそうに肩をすくめた。
「怨霊の餌食になったところを、誰か見た者があるのかね」
「見た者はねえけれど、餌食になり果てたことは誰にも知れているよ。その証拠には、駅を下りて千早館へ向った若い者の数と、それが引返して来て汽車に乗って行った者の数とが、うんと喰い違っているって、駅員さんは言っとるがのう。帰って行った衆は、ほんの僅かの人数だとさ」
「中に泊り込んでいるんじゃないかね」
「ばかいわねえこった。あんな八幡《やわた》の藪《やぶ》しらずのような冥途屋敷の中に、どうして半年も一年も暮せるかよう。第一その間、ちょっくら姿も見せねえでおいてよう」
「なるほど。で、その八幡の藪しらずというのは何だね」
「わたしも話に聞いただけだが、なんでも千早館の中に入ると、廊下ばかりぐるぐる続いていて、気味がわるいといったらないってよ。そして寝る部屋はおろか、住む部屋さえ見当らないということよ」
「じゃあ現在、誰も住んでいないんだね」
「魔性の者なら知らぬこと、まともな人間の住んでいられるところじゃない」
 魔性の者? 横で聞き耳を欹《そばだ》てていた春部は、どきんとした。
「ねえお婆さん。千早館を見物に、同じ女がちょくちょくやって来るのを知らんかね。背のすんなりと高い、顔の小さい、弁天さまのような別嬪《べっぴん》だが……」
 帆村は、ちょっとかまをかけた。
「ああ、あの女画描きかね。あの女ならちょくちょく来るが、ほんとに物好きだよ。物好きすぎるから嫁にも貰い手がなくて、あんなことしているんだろう」
「その女画家は、千早館に泊るんかね」
「いいや、聖弦寺《せいげんじ》に泊るということだよ。聖弦寺というのは、千早館の西寄りの奥まったところにあるお寺のこんだ」
「寺に女を泊めるのかね」
「なあに、住職なしの廃寺だね。そこであの女画描は自炊しているという話じゃが、女のくせに大胆なこんだ」
「お婆さん。その女画家から何か貰ったね」
「と、とんでもねえ。わたしら、何を貰うものかね、見ず知らずの阿魔《あま》っ子から……」
 帆村は軽く笑んだ。
「私もお婆さんにいろいろ聞いたから、お礼にこれをあげよう」と、帆村は二三枚の紙幣を老婆の手に握らせ「まあいいよ。取っときなよ、いくらでもないんだ。……それからもう一つ、二十五日の晩か二十六日の朝に、一人の若い男が汽車で着いて、千早館の方へ行かなかったかね」
「二十五日か二十六日というと三日前か四日前だね。はて、聞かないね、その話は……」
「五尺七寸位ある大男で、小肥りに肥って力士みたいなんだ、その人はね。もっとも洋服を着ているがね。髪は長く伸ばして無帽で、顔色はちと青かったかもしれない……」
「聞きませんね、そんな人のことは……」
 帆村の一番知りたいと思ったことは、残念にもこの老婆の口からは聞き出せなかった。

     4

 爪先あがりの山道を、春部をいたわりながらのぼって行く帆村荘六だった。
 だが、いたわる方の側の息が苦しそうに喘《あえ》いでいるのに対し、いたわられている方のカズ子は岩の上を伝う小鳥のように身軽だった。
「先生、田川は本当に、ここへ来ているのでしょうか」
「それは今のところ分らない。しかし田鶴子の動静を掴むことが出来たら、はっきりするでしょう。ああ、あなたは、私が田鶴子ばかりを睨《うかが》っているように見えるもんだから、それで不満なんでしょう」
「ええ。でも田川より田鶴子さんの方がずっと探偵事件的に魅力があるんですものね、仕方がありませんわ」
「冗談じゃないですよ、春部さん。私はあなたの御依頼によって田川氏の行方を突き停めようとしてこそあれ、あの今様弁天さまの魅力に擒《とりこ》になっているわけじゃありませんよ」
 春部は、何とも応えなかった。と、ゆるやかながら一つの峠を越えて、正面の眼界が一変した。左手の方が一面に低い雑木林となり谷を作りながら向こうへ盛りあがり、正面の切り立ったような山の裾にぶつかっているが、その山の麓《ふもと》に、奇妙な形の洋館が、まわりに刑務所のような厳しい塀をめぐらせて、どきつい景観となっていた。朱色の煉瓦を積んだ古風な城塞のような建物であった。そして外廓は何の必要があってかふしぎにも曲面ばかりを持っていて、平面が殆んど見当らない。なんのこと長い腸詰を束にして直立させたような形だった。永く見詰めていると顔が赭くなるような、そしてふと急に胸がわるくなって嘔吐を催し始めるような、実に妙な感じのする建物だった。……二人の足は竦《すく》み、そして二人はしばらくはものもいわず、その煉瓦館に見入っていた。それは間違いなく、千早館だった。
「出来るだけ近くまで行ってみましょう」
 帆村が、やっとそれだけをいって、春部をふりかえった。春部は肯いた。帆村は彼女の方へ自分の腕を提供した。二人は愛人同士のようにして、林の間を縫う坂道を下って行った。
「あんな気味のわるい建築物は始めて見ましたわ。悪趣味ですわねえ」
 春部の声は、すこし慄えを帯びていた。
「日本人の感覚を超越していますね」
「しかし人間の作ったものとしては、稀に見る力の籠り工合だ。超人の作った傑作――いや、それとも違う……魔人の習作だ。いや人間と悪魔の合作になる曲面体――それも獣欲曲面体……」
「えっ、何の曲面体?」
 このとき帆村は、はっと吾れにかえり、
「はっはっはっ。いや、ちょっと今、気が変になっていたようですよ、突然あんなものを見たからでしょう」
 帆村のさしあげた洋杖《ステッキ》の先に、雑木林の上に延び上っているような千早館のストレート葺《ぶ》きの屋根があった。
「あれは古神子爵がひとりで設計なすったんですの」
「さあ、全部はどうですかね。しかし古神君は非常な天才であり、そして実に多方面に亙《わた》る知識を持っており、時間さえ構わなければ、彼ひとりの力でもって設計をやり遂げることも出来たと思います」
「じゃあ超人ね」
「超人――超人という程でもないが……」
「ねえ先生」
 春部が改まった口調で呼びかけた。
「はい」
「わたくし、何だか前から気になっていたんですが、古神子爵というのは本当の御苗字ですの」
「フルカミが本当の苗字かとお訊きになるんですね。いやあれは本当ですよ。高等学校でも……その前の中学校でも彼は古神行基でしたからね。なぜです、そんなことを気にするのは」
「だって、あまり沢山ない御苗字ですもの」
「殿様の末裔ですからね、殿様にはめずらしい苗字の人が多い」
「じゃあ、あの田鶴子さんの苗字の四方木《よもぎ》というのはどうでしょうか。あれこそ変った苗字ですわね」
「そうでしょうか。……尤も昔あの女は、自分の苗字を四方木とは書かず、蓬《よもぎ》と書いていました、つまり草のヨモギですね。しかし私が知って間もなく四方木と書くようになりました。……そうそう思い出したぞ」と帆村はそこで急ににやっと笑顔になり「四方木と書かせるようにしたのは、あの古神だったのですよ。そのことは、何の時だったか、田鶴子が客の一人に上機嫌でお喋りをしているのを私は傍で聞いた覚えがあります。しかももう一つ話があるのですよ。それは何でも古神が、名の方も田鶴子ではなしに、田津子に改めろといったらしいんですが、あの女はそれを頑として応じないで田鶴子を通しているといっていました。それは田鶴子の方がずっと上品だからという理由に基くんだそうです」
「まあ、面白いこと」
 二人は、そこで声を合わせて朗らかに笑った。
 だが、二人は間違っていたのだ。それが笑うべき事柄でなかったことは、やがて二人にはっきりと、そして深刻に了解されるであろう。
 しかもだ、カズ子の名前も、彼女の愛人の田川の苗字も既に用意せられた恐ろしい舞台の上でスポットライトを浴びていたことに同時に気がつくであろう。

     5

 雑木林がようやく切れて、帆村荘六と春部カズ子はひょっくりと千早館の塀の前へ出た。
 帆村は春部の方を振返った。春部は千早館の高い屋根に釘づけになっていた眼をかえして、帆村の方を見た。彼女の円《つぶ》らな眼の奥には
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