鋏《はさみ》でつまんだ髪の毛のようになっているんですが、それが池の中に浮いているんです……」
「間違なしですか。見誤りじゃないでしょうね」
「いいえ、決して間違いではありません。わたくしは念のために、竹を拾って池の水に漬《つ》け、そのこまかく切られた服の裏地をそっと引揚げたのです。これがそうです。この瑠璃《るり》色とくちなし[#「くちなし」に傍点]色と緋色の絹糸を、こんな風に織った服の裏地は、わたくしがあの人へ贈ったもので、他にはない筈のものです。どうしてあの人の服の裏地が、あんな池の中に浮いていたのか、ああ、恐ろしい……」
「なるほど。そうだとしたら、これは重大だ」
「ねえ帆村さん。千早館の入口を探すよりも、あの池をさらえる方が急ぎますのよ。もしもあの池の中に、あのひとの死骸が沈んでいたら……ああ、いやだ、いやだ」
「お嬢さん。気を鎮《しず》めなければいけませんよ、まだ、そう思ってしまうのは早い……」
「でも、わたくしは、もうじっとしていられません。下へ行って人を呼んで来て、あの池をさらって貰います」
「待ちなさい、春部さん。今が大事なところだ、私が――」
 といいかけた帆村は突然口を噤《つぐ》んだ。彼の全身の関節がぽきぽき鳴った。彼は望遠鏡にのしかかった。喘ぐように、彼の大きな口が動いた。
「……分りました。千早館の入口が……」
 帆村は望遠鏡から目を放して、歓びの色を隠そうともしなかった。
「今、ねえ、たしか田鶴子と思われる女が外から戻って来て、千早館の中へ入っていったのですよ。玄関の脇に、巧妙な仕掛がある。あんなところから自由に出入りしていたんです。さあ、急いで行ってみましょう」
「どっちへ行くんですか。千早館ですか、池の方ですか」
「ああ、池……。池へ行ってみましょう」

     7

 帆村は実は心の中で春部の感傷を笑っていた、下の池の面に浮いていた絹の小さな破片が、田川の服の裏地に違いないなどという彼女の感傷を……。
 だから彼としては、千早館の入口を見付けた今、急いで千早館へ駈付けたい気持であった。しかし春部の思いつめた顔を見ると、池の方を後廻しにともいえなくなって、帆村は遂に、池を先に調べることにした。
「先生。ほら、あの水面に、まだいくつも浮いていますのよ。お分りになります」
 春部は、さっき使った竹竿を再び手にして水面を指す。なるほど、こまかく千切った布片のようなものが浮いている。
(もしあれが、本当に田川の服の裏地だったとしたら[#「だったとしたら」は底本では「だったとした」]、どういうことになるのか)
 帆村は、それが極めて稀《まれ》な場合だと思いながらも、考えてみないでいられなかった。そのとき春部はその布片を更に採取するために竹竿を身構えた。
「あ、お待ちなさい」
 帆村が突然大きな声を発した。春部は愕いて帆村の方を振返った。
「……よくごらんなさい。あそこを。あなたのいった布片は、静かに池の底から浮き上がって来るのですよ。よく見てごらんなさい」
 なるほど帆村のいうとおりだった。毛のような黒いやつが、灰白色の水の中から静かに水面へ浮び上って来て、やがて静止するのであった。春部の愕きは大きかった。
「見えますわ。でも、どうしてでしょうか。……まさか田川の死骸が池の底に沈んでいるのではないでしょうね。ああ……」
 春部は、そうでないことをひたすら祈った。
「そうではないと思います。仮りに池の中に田川君の死骸があったとしても、着ている服の裏地があんなにこまかくぼろぼろになって、池の面へ浮きあがって来るためには、少くとも死骸が一年以上経ったあとでなくては起らないですよ。それも、特別に池の底をかきまわしたときに限るので、水が静かになれば、あのような布片もとっくの昔に水と同じ比重になっているから浮いて来ないものなんです。浮いて来る以上は、池の底を何者かがかきまわしているか、さもなければ……さもなければ、あの布片は極く最近、破れやすい新聞紙か何かに包んで池の中へ投げこまれ、その紙包が破れたため、まだ水を十分に含んでいないあの布片は水よりも軽いからああして浮き上って来る――この二つの場合しか考えられないですね」
 帆村のこの分析を、春部は感動を以て聞き取った。
「すると田川の死骸は、今池の底に沈んでいないと断言なさるのですか」
「そういう理屈になるというわけです。恐らくそれに間違いありません。が、何故あのように裏地の布片が中から浮いて来るか、この説明は今直ぐにつかないですね。しかしこれは直接田川君の死を決定するものではない。田川君の生死の鍵は、むしろあの千早館の中にあるのだと思います。それも今、相当切迫した状態にあると思うんです。ですから春部さん、池の方は今はこれくらいにして置いて急いで私たちは千早館の中へ入っ
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