の場合が……」
「それは明日でもいいです。ゆっくりお考えなさい。今夜はもうやすんで頂きましょう。今、寝室を用意して来ますから」
「あ、わたくしの泊ることをお許し下さるんですね」
「ええ。その代り私はこの部屋で少し窮屈な寝方をしなければなりません」
「お気の毒ですわ」
「そして明日は田川君のアパートと、田鶴子の身辺を探って、田川君の所在をつきとめることにしましょう」
2
中に一日置いて、三月二十九日の朝のことだった。帆村荘六と春部カズ子の二人連が、栃木県某駅に降りて、今しも駅前から発車しようとしているバスに乗り移った。
このあたりは静かな山里で、あまり高くない山がいくつも重なりつつ、全体が南東へゆるやかな傾斜をなしており、そしてその反対の背後遙かには、奥日光の山々が、まだ雪を頂いて眩《まぶ》しく銀色に光っていた。
バスは、道中やたらに停っては人を降ろし、曲りくねった坂道を、案外遅くないスピードで登っていった。赤松の林が、あちらにもこちらにもあって美しく、その間から池の面が見えたりした。
二人がこんな山里までやって来た訳は、昨日いろいろと手を尽した探査の結論に基づいてのことだった。
田川の下宿を調べたが、彼の日記帳を得た外には、彼の行方をつきとめる資料はなかった。その日記も、一ヶ月程前から始まった四方木田鶴子との交際に関する熱情と反省とが、彼らしい純情の文章で綴《つづ》ってあるだけで、彼がこれから赴こうとする場所については記載がなかった。
ただその中で一つ、帆村の注意を惹いたのは、「千早《ちはや》館」という文字だった。“田鶴子さんは日本中で一番感覚美を持った建築物は千早館であり、田鶴子さんは毎月一回は栃木県の山奥まで行って、千早館を眺めて来ないではいられない程なのよと、うっとりとした面持で僕に語った”と、日記には出ていた。
千早館! この建物の名に、帆村は古い記憶を持っていた。それはこの建物が、彼の旧友古神子爵が道楽に作ったものであること、そして子爵はその設計を早くも高等学校時代から始めたこと、それは前後十年の歳月を要して出来上ったこと、だがその千早館は公開されるに至らず、客を招くこともなく、その儘にして置かれたが、それから二年後に、例の日本アルプスにおける遭難事件があり、子爵は恐ろしい雪崩と共に深い谿谷へ落ちて生涯を閉じたのである。
それ
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