りぎわになってやっとその機会が来た。一旦道へ出た五助は、忘れものをしたように装いながら、雪穴へ引返して、兄にその魔神を見た話をしたのだ。
 一造はその魔神の話を一笑に附した。第一地蔵の森は、青髪山よりずっと下にあること、またその足跡と見えたのは、雪を吹きつけた風の悪戯《いたずら》であること、それから雪の中では眼が変になって、よくそうした青いものを見ることがあることなどをあげて、それは青髪山の魔神ではないと結論したのだった。せっかくの一造の説明も五助の疑惑をすっかり払うほどの力はなかった。――まあ、こういう話だった。
「彦くん。いよいよ来たよ。地蔵の森だ」
 五助が叫んだ。
「ああ、地蔵の森か。魔神は見えるかい」
「いや、今日は出ていないや」
 雪はやんでいた。見とおしはよかった。地蔵の森の木立も、硝子にとおしたように、はっきり見えていた。なるほど、五助のいう魔神らしき怪しい影は何も見えなかった。
「今日は足跡もついてないや」
 五助は、森の前を通り抜けるときに、そういった。彦太は笑った。しかし五助は笑わなかった。
 それから一里の苦しい雪の山道が始まった。折悪しく急に風がかわって、粉雪が渦をまいて落ちだした。いよいよ吹雪になるらしい。二人の少年は、道の真中に立ちどまって、魔法壜からあつい茶をくんで呑み、元気をつけた。それからまた雪道へ踏み出した。
 二時間あまりの苦しい登山がつづいた。二人の少年は、全身汗にまみれ、焼けつくような熱さを感じた。
「五助ちゃん。まだ兄さんの雪穴までは遠いのかい」
 彦太は、雪になれていないので、ややへばったらしい声を出した。
「もうすぐだ。あそこに峯が見えているだろう。あの裏側だから、そこの山峡を過ぎると、観測所の雪穴が見え出すよ」
 彦太は返事の代りに、重い首を振った。
 そのときであった。とつぜん四、五発の銃声が聞えた。どどん、どんどんと、はげしく雪山に響いた。音のしたのは、どうやら峯のあたりである。
「銃声だ。どうしたんだろう」
「何かあったんだ。しかし誰が撃ったんだろう」
「早く行ってみよう。兄さんの雪穴へ……」
 二少年は顔色をかえ、雪をかくようにして前へ急いだ。


   雪崩《なだれ》だ!


「兄さーん。どうしたんです」
「一造兄さん。今行きますよウ」
 五助と彦太は、かわるがわる叫びながら、一秒でも早く一造のいるところへ近づこうと、一生けんめいに走った。
 観測所のあるところへは、山をぐるっと、一まわりしなければならない。二少年は好が気でないが、雪に足をとられて、思うように足がはかどらない。
 それでもやっとのことで、一造の籠《こも》っている雪穴の入口までたどりついたが、そのときはもう銃声が聞えてから二十分もたった後であった。
「兄さん、兄さん」
「どうしたんですか、さっきの銃声は……」
 二少年は、そう叫びながら、身体についた雪をも払わないで、雪穴の中へとびこんだ。
「おや。兄さんは見えないぞ」
 五助は、観測室の中できょろきょろ。
「じゃあ、外へ出たんだろうか」
 彦太はすぐ穴から外へとび出した。そして、あたりの雪の上に目を走らせた。
「分ったかい」
 五助が穴から出て来た。
「いや、分らない。でも、ほら、雪の上には僕たちの足跡の外《ほか》に誰の足跡もついていないよ。すると兄さんは外へ出ないわけだ。やっぱり穴の中だよ」
「そうかしらん。しかしへんだね。穴の中には、たしかにいないんだがね」
 二少年はもう一度、穴の中に入った。そして、しきりに一造を呼んでみたが、やっぱりその返事は聞かれなかった。
「おかしいねえ、あかりがいつもついているんだが、今日は消えていらあ」
「そうだ、暗くて分りゃしない。あかりを早くおつけよ」
「どこだったかなあ、電池のあるところは……」
 五助は奥の方へいって、手さぐりでそこらをなでまわしていたが、とつぜんおどろきの声をあげた。
「ああ、たいへんだ。電池がひっくりかえっている。……おや、いつの間に掘ったんだろう。穴の奥が深くなっているぞ」
 と、そのときである。どこからともなく、ごうッという音が聞え始めた。すると雪穴の外にいた彦太がとびこんできた。
「五助ちゃん。早く外へ出ないとあぶない。雪崩《なだれ》がやって来たぞ」
「えっ、雪崩。それはたいへんだ」
「早く、早く……」
 二少年はころがるようにして雪穴の外へ出た。ぱらぱらと、雪のつぶてが降って来た。
「向こうへ逃げよう。彦くん、早く……」
 五助は先に立って、反対の山の斜面へ、兎のようにかけのぼっていった。
 二少年の背後に、すさまじい響《ひびき》が起ったが、それをふりかえる余裕もなく、二人はなおも一生けんめいに斜面をはいのぼった。息が切れる。心臓が破裂しそうだ。
 響が小さくなったとき、二少年は始めて生命を拾ったことを知って安心した。二人とも雪の中にぶったおれて、しばらくは起上る元気もなかった。
 やがて二人が元気をとりもどして雪の上にむっくり起上ったとき、雪はもうやんでいて、あたりは明るさを増していた。そして二人の目にうつったものは、ものすごい雪崩のあとであった。さっきまで二人が走っていたところは、もうすっかり雪の下になっていた。観測所のあった雪穴なんか、もうはるかの底になってしまった。
「ああ、こわかったねえ」
「もう死ぬかと思ったよ。兄さんはどうしたかしらん」
「さあ、困ったねえ」
 とうとう一造の所在をたしかめないうちに、このとおり雪崩になってしまったのだ。一造の生死のほどが一層心配になってきた。彦太は何とかして五助を安心させたいと思ったけれど、そんな材料はなんにも見あたらなかった。だが一つ、そのとき気がついたことがある。
「五助ちゃん。今ごろ雪崩が起るというのはへんだね。まだ早すぎるじゃないか」
「そうなんだ」と五助はうなずいた。
「しかしさっきの銃をうったあの響で、雪崩が起ったのかもしれない」
「そんなことがあるもんかなあ」
「たまにはあるんだよ。しかし、どっちかといえば、めずらしい出来事だ」
 五助の語るのを聞いていた彦太はそのとき五助の手首に赤く血がついているのを見つけて、おどろきの目をみはった。
「五助ちゃん、怪我をしているじゃないか。手から血が出ているぜ」
「えっ、手から血が出ているって……」
 五助もおどろいて、急いで自分の両手を見た。なるほど手首のところに、いっぱい血がついている。
「どこから出血したのだろう。別に痛みも感じないのにねえ」
 よく調べてみたが、ふしぎにも、どこにも傷口が見つからない。
「どこにも、怪我はないんだがねえ」
「でもへんだね。ちゃんと血がついているんだからね。ずいぶんたくさんの血だよ」
 彦太も、ともども調べてやったが、たしかに五助はどこにも傷をうけていないことが分った。
「ふしぎだねえ。どうしたんだろう」
「全くふしぎだ。気味が悪いねえ」
「ああ分った」
「分ったって。どういうわけなの」
「そのわけは……困ったねえ」と彦太は困った顔をしながら「でも五助ちゃん、悲観しちゃだめだよ。つまりあの雪穴の中に血が流れていたんじゃないか。その血が君の手についたのかもしれない」
「あっ、そうか」五助は、そういって、さっと顔色をかえた。「すると一造兄さんが穴の中で……」
「さあ、それはまだほんとうかどうか分らないんだ。雪穴を掘りだした上でないと、確かにそうだといえないよ。だから気を落すのはまだ早いよ」
 彦太は五助を一生けんめい、なぐさめたが、心の中では、これはたいへんなことになったぞ、と思った。
「五助ちゃん。山を下りよう。そしてこのことを皆に知らせようや」
「そうだ。村の人にそういって、雪崩の下から雪穴を早く掘りだして見なければ……」
 五助と彦太とは、雪の中に幾度もころびながら、大急ぎで山を下りた。
 すこし早すぎる雪崩のこと、一造の行方不明のこと、五助の手首についていた血のこと――二人が知らせた変事は、すぐ村中にひろがった。すぐさま救援隊がつくられ、一同は青髪山の現場へかけつけ、そこで雪掘りが始まった。
 果して雪崩の下から、どんな怪しい事が掘りだされるだろうか。


   雪とけて


 変事を知ってかけつけた村人たちは、雪の中に一生けんめいに雪崩《なだれ》のあとを掘りかえした。しかし仕事は思うように進まず、やがて夜が来た。ふもと村からはこばれた薪《まき》があちこちにつみあげられ、油をかけて火をつけると、赤い焔《ほのお》はぱちぱちと音をたてながら燃えさかり、雪の山中はものすごく照らし出された。掘出作業は、夜中つづけられたが、それでもまだ目的をはたすことができなくて、ついに暁をむかえたが、どこまでも不幸なことに、その頃になって、またもや猛烈な大吹雪《おおふぶき》となってしまった。それは今も気象台の記録に残っている三十年来の大吹雪の序幕だった。
 そうなると、もう人間の力ではどうにもならなかった。人々は涙を流しながら、山はそのままにして、生命からがら、ふもと村へ引きあげねばならなかった。その中には五助も彦太もまじっていた。
 あの変事も、記録やぶりの大吹雪も、共に青髪山の魔神のたたりだといううわさが、その後その地方にひろがったのも、ぜひないことであったろう。
 それから数ヶ月の日がたった。
 五月の半ばすぎのある日、五助の家へひょっくりと彦太がすがたをあらわした。休みでもないのにどうしたのかと、五助はいぶかりながら、うれしく彦太をむかえたが、彦太の話では、東京はひどい食糧不足のため、学校は当分のうち授業が休みになったということだった。五助は、へえそうかねと目を丸くしておどろいた。
「あれから、青髪山へ行ったかい」
 と、彦太は五助にたずねた。
「いや、行かないよ。行かれないんだよ、彦ちゃん」
「なぜさ」
「だって、この村では、青髪山の魔神のたたりがおそろしいといって、もう誰も山へのぼらせないことになったんだ」
「それはおかしいね」と彦太は口をとがらせていった。「青髪山の魔神をこわがるなんて迷信だよ。そんな迷信をかついでいたのでは、いつまでたっても日本は世界のお仲間にはいれないよ」
「だって、僕だって青髪山を思出してもぞっとするからね。地蔵の森にあやしい帯みたいなものがとんでいたこと、舟のような形をしている足跡、一造兄さんが行方不明になるし、大雪崩はあるし、それから大吹雪――そうそう、それにあのとき僕の手が血だらけになっていたことを君もおぼえているだろう。こんなにあやしいことだらけだもの」
 そういった五助の顔には血の気がなかった。彦太は首を左右にふって、
「だめ、だめ。そのようにおびえていては、いつまでたっても正体をつかむことはできないよ。さあ、これから僕といっしょに青髪山へ行ってみよう。もう山の雪はとけているだろうね」
 と、強い声でいった。
 五助ははじめ気がすすまなかったけれど、彦太にはげまされ、迷信をやぶった方がいいと思い、それにほんとうは兄の遺骸《いがい》でも見つけて葬ってあげたいと思っていたので、ついに彦太のことばに従って、ひそかに二人で青髪山へのぼることに心をきめた。
 用意は前の日にし、翌朝まだ暗いうちに二人の少年は村をあとにして山のぼりをはじめたのだった。雪はとけていた。春の山草の香がぷんぷん匂っていた。そして朝日が東の山の上に顔を出すころ、ちょうど青髪山の峯についた。
 兄一造のこもっていた穴の入口を見つけることは、そんなにむずかしいことではなかった。もちろん雪はなく、入口は半くずれになっていた。二人はその前に立って、顔を見合わせた。五助の目にはきらりと涙が光った。
「元気を出して、そして、おちついて物事を考えなければいけないんだよ」と彦太が大人のような口をきいた。「この前、僕たち二人がここへのぼった日の三日前に、五助ちゃんはお雪ちゃんといっしょにここへ来て、一造兄さんの元気なすがたを見たんだったね」
「そうとも」
「そこまでは無事だったが、僕たちが山をのぼって来ると銃声がきこえ、それからここへかけつけると、穴の中に一
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