の胃の腑に運ばれてしまったのです。世の中にこれほど惨酷《ざんこく》な他殺方法を考え出した男が他にありましょうか。――残念なことに、今以て彼の行方が知れないのです。しかし私は草を起し、土をわけてもあの殺人鬼を探し出して見せますよ」こういって赤星探偵は口をむすびました。
「すると笛吹川は、まだ此の赤耀館の者に呪いの手をのばすかも知れませんわね。まああたくし、どうしたらいいのでございましょう」百合子は、次の犠牲者となることを考えてみて早や眼の前が暗くなったようです。
「御心配は無用です」と赤星探偵はやさしく言いましたが、何を考えたものか、彼は黒い眼鏡を外《はず》し、長髪に手をかけて引張ると、それはするりと彼の手の中に丸めこまれました。そこには晴々しい笑顔をうかべた二十七八歳と思われる青年の顔がありました。それはどこやら覚えのある顔でした。ああ、丈太郎の弟である亮二郎さんに違いはなかったのでした。
「まあ、貴方は……」百合子はさっと顔をあからめました。「赤星探偵、実は松木亮二郎です。よく私を覚えていてくれましたね。貴女にも色々御心配をかけましたが、今日からは私が貴女の保護者になりましょう。やさしい貴女が私の側についていて下さる間は、赤耀館にはなんの惨劇も起り得ないのです」
尾形警部はそのとき、気をきかせて、室をしずかに出て行きました。それからのちのことは説明するまでもないことです。
これで赤耀館事件の真相をすっかり話してしまったことになりました。この話の結びとして、最後に言いのこしたことをよく味《あじわ》っていただきたいと思います。この事件の結末は、まだ本当についていないのです。それは笛吹川画伯の行方が、一年この方、いまだに知れないことに在るのです。彼は一体、どこに居て、何をしているのでしょう。
これがもし貴方のおすきな探偵小説であったとしたならば、これだけの物語を以て、なんと結末をおつけになりますか。若し私が貴方の立場に居たとして、自然な結末をつけるものとすれば、先ずこんな風に考えてみてはどうでしょう。ここは門司の埠頭《ふとう》です。一人の青年が東京へ急ぐこころを押《おさ》えて、大きな汽船から降り、倉庫のあたりを一人で静かに散歩していたとしましょう。そのとき背後から二人の怪漢が忍び寄り、呀っという間に青年の頭から、南京米の袋をかぶせてしまった。怪漢はこの袋を楽々とかついで側らの倉庫の中に姿を消してしまう。五分間ほど経つと、再び倉庫の扉が細っそりと開き、さっきの青年と、一人の怪漢とが、こんどは仲がよさそうに出て来た。倉庫の角のところまで来ると青年は、
「御苦労だった。これは少いがお礼にとって置け」
「どうも親分すみませんな」
「あの若僧の死骸は浮き上るようなことアあるまいな」
「永年の荒療治稼業、そんなドジを踏むようなわっしじゃございやせん」
青年はいまし方出て来た汽船の方へかえって行った。――と考えてはどんなものでしょうか。やあ、貴方は大変お顔の色がわるい、お風邪をめしたのじゃありませんか。此所に幸い熱さましのカプセルと、ホット・レモンもありますよ、こいつをグイッと、どうです。いい気持になりますよ。
私はもう元気に床を離れている。あれからこっち「赤耀館事件の真相」について再び考えをめぐらすことがいやになった。しかし兎もすれば、私はあの話の方へいつの間にか引き戻され勝ちである。
きけばこの頃、赤耀館の主人公は、精神異常だと言いふらされているそうだ。私は彼の物語った事件の真相なるものが、全然虚構であるとは思っていないが、勿論あの全部を信用しているものではない。私の睨んだところでは、あの赤耀館の主人公は松木亮二郎その人であって、決して笛吹川画伯の化けたのではないと思っている。さもそうらしいようなことを言ったのは、彼の一家の特質を享《う》けついでいる彼として、犯罪とか極悪人とかへのやけつくような憧憬から生れ出た妄想を、其の儘、事実らしく物語ったものであろう。従って「赤耀館事件の真相」もどこからどこまでが、本当にあったことかわからないのである。私の元気がもっと恢復したらば、もう一度あの話を考え直してみたいと思っている。
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年10月号
※「湿度・気温・気圧曲線」の図は、初出からスキャンし、つぶれのはなはだしい文字を入力し直しました。その際、「午后」を「午後」に、「粍」を「ミリメートル」に置き換えました。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年11月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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