が高くなりました。蒸発作用の潜熱によって室内の熱量は奪われ、さてこそ室内温度の下降を導くに至ったのです。それから三分ほど経って、湿度と温度の曲線は、常識では考えられぬほどの異常な変動を生じています。すなわち、湿度は九十五パーセント近くに昇り、温度は華氏で十五度も急降しているではありませんか。これは濡れた衣服を着た人間が、この計器にふれんばかりの近くにすすみよったことを示すものなのです。恐らく湿度計は乾湿《かんしつ》ハイグロメーターの湿球のような状態におかれ、水銀は急に熱を奪われて萎縮《いしゅく》したことでしょうし、湿度計の方は、その傍に居る人の衣服がポッポッと湯気《ゆげ》を出して乾燥中であるために殆んど飽和状態に近い湿度を記録したのでありましょう。三分以後は三曲線とも元のように帰ろうとしていますが、九時五分に至って、最後の階段的変化を示しています。この変化は割合に緩慢な動きをとり、ことに気圧の如きは点線で示すような当夜中央気象台でとった気圧変化と、九時十分頃には完全に一致しているところから観察して、これは多分、実験室の扉が午後九時五分|過《すぎ》に開放された儘、放置されたため、室内の三計器は屋外の気温、気圧、湿度と一致するに至ったものだろうと思います。誰か遽《あわ》てて室外に逃げ出した者のある証拠です。
[#図1、湿度・気温・気圧曲線]
 ところが只今、X線を壁に当てて見ました結果、気圧計などのすぐ近くに、異形のものを発見しました。これはまだ新しい壁の上に水分をたっぷり含んだ物体がおしつけられたため、水を吸収した部分と物質だけが極くこまかい結晶をつくり、それがためにX線を当ててみると他の部分とはまるで違った表面になっていることが判ったのです。その結果は、壁の上に鉛筆で記したとおりで、しかもそれが綾子夫人以外の誰でもないことが明白になりました」赤星探偵はこう言って、ホッと吐息《といき》を洩《もら》したのです。
「では姉が……」百合子は愕《おどろ》きのために目を大きく瞠《みは》って叫ぶように申しました。「姉が兄を殺したのでございますか」
「お嬢様、私たちの失敗は、そこにあるのです。ごらんなさい。綾子夫人の像から二寸ばかり離れた場所に、大きな手の跡がX線によって発見されています。これは丈太郎氏の右手なのです。綾子夫人を壁ぎわに押しつけたとき丈太郎氏の手は夫人の濡れた衣服をつかんでいたのでした。そのとき丈太郎氏は中毒のために力を失い、この壁の上にぬれた手をつくなり、バッタリ下に斃《たお》れてしまったのです。丈太郎氏の臨終は正《まさ》に午後九時三分であると断言することが出来ます。周囲の状況から考えますと、綾子夫人は丈太郎氏のところへ、レモナーデを搬んで来たのです。丈太郎氏は九時二分過ぎに時報受信の実験をやり、やさしい夫人の捧げるレモナーデを手にとって一口に飲んだのでした。ところが丈太郎氏は忽ち身体に異常を覚え、これはてっきり綾子夫人が毒を仕掛《しか》けたレモナーデを飲ませたせいであると思い、忽ち夫人に飛びかかって壁際に押しつけはしたものの、其の時、中毒作用は丈太郎氏の心臓を止めてしまったのです。私どもの実験は綾子夫人を犯人として画き出すほか、何の効果もありませんでした。しかし私は夫人を犯人とするに忍びないのです。いやまだまだ此の室には、私達の未だ発見していないような参考資料がある筈です。第一に探し出さねばならぬことは、丈太郎氏は如何なる手段によって青酸を口にせられたかということです。コップの中に青酸加里があったとすると、綾子夫人も青酸瓦斯を吸いこんで命を其の場に喪った筈なのです。お嬢さんにお伺いいたしますが、丈太郎氏は、何かものを口にくわえるといった風な癖をお持ちではありませんでしたでしょうか」
「まあ、よく御存知でいらっしゃいますこと――私もウッカリ忘れて居ました。兄は不思議な癖のもち主でございました。こういう風に左手の親指と、人差指と中指とをピッとひねり、そのあとで人差指と中指とを一緒に並べたまま、下唇の内側をこんな風に……」
「ま、待って下さい、お嬢さん、そんな悪い真似は本当におやりにならぬように。しかしそれはいいことを伺いました。第三の発見ができるかも知れません。尾形さん、そこにある受信機をそのままそっと窓の方へ一緒に担いで呉れ給え。なるべく静かに、そして端の方をもって……」
 赤星探偵は六尺もあろうと思われる受信機の目盛盤《ダイヤル》を左の方から一つ一つ点検して行きました。点検すると言っても指でクルクルと廻してみるわけでもなく、二尺も離れた遠方から恐る恐る窺《うかが》っているという風に見えました。それから急に一つ首を竪《たて》に振ると一つの小さい目盛盤《ダイヤル》をとりはずし、他のものと綿密《めんみつ》に比較研究をしているようでした。それが済むと、室の一隅に置かれた無線の送受信装置やX線の発生装置がゴチャゴチャ並んでいる方をジロジロと見廻していましたが、配電盤の開閉器を全部きってしまうと、機械という機械の間を匍《は》いまわり、変圧器の下に手をさし入れて掌を油だらけにしたり、丹念にボールトをはずして電動機を解体したりなぞやっていました。それでも彼が探し求めるものはないらしい様子で、遂には機械の中に棒立ちとなったまま、当惑顔《とうわくがお》にうちしずんで見えました。
「なにを探しているんだ、赤星君」呆気《あっけ》にとられていた尾形警部が声をかけましたが、探偵は口の中で返事をしたばかりであったのです。が何を思いついたか、先刻《さっき》とりはずした受信機の方をふりかえると、彼の眼は燃え立つばかりに輝きました。受信機のあった丁度真下と思われるところに、さきほど彼が点検したと同じ形の目盛盤が一個、腹をむけて転《ころが》っていたのでした。
 赤星探偵は、その小さい目盛盤をピンセットの先に挿《はさ》みあげましたが、それを紙の上に置くと青酸加里の白い粉をパラパラと削り落し、今度は懐中から虫眼鏡を出してのぞいたようですが、
「尾形さん、ここにある指紋を見て呉れ給え。こっちの方のは彼奴の左の人差指にちがいなかろう!」
 警部はポケットから指紋帳を出して較べていましたが、驚きと悦びの声をあげて、
「彼奴の指紋だ。とうとう証拠を押えちまったぞ」
「お嬢さん、大方様子でお察しのとおり、ある人間が、お兄さまの癖を利用するために、あの受信機のダイヤルに、青酸加里をぬりつけて置いたのです。不幸なお兄さんは、あの夜|時報《タイム・シグナル》を受けるとて受信機の目盛盤を廻しているうちに、左の指に青酸加里をベットリつけてしまいました。開閉器をきり、綾子夫人からレモナーデを受けとる前に、青酸加里は指から口の中へ既に、いとたやすく搬ばれていました。右手でレモナーデのコップをとりあげて一息に飲み下したのだから、何条《なんじょう》たまりましょう。たちまち青酸瓦斯が体内に発生して一分と出でぬ間に急死してしまったのです。あの惨劇のあった後犯人はひそかに、青酸を塗った目盛盤を外し、これを綺麗に洗滌《せんじょう》しようと思って此の室にやって来たのです。しかるに犯人のために不幸な出来事が突発した。というのは、折角《せっかく》とり外したダイヤルが、コロコロ転ってしまってどこかに隠れちまったのです。犯人は色をかえて探したことでしょう。注意深い彼に似合わしからぬ立派な犯跡をのこすことになるのでネ。ところが御覧のとおりダイヤルは受信機の下に転げこみ、所謂《いわゆる》灯台下暗《とうだいもとくら》しの古諺《こげん》に彼奴はしてやられたのです。これも天罰というやつですかな。その上、拙かったことは、警察の連中にダイヤルの一つ欠けた受信機に気付かれ、不利な探索の行われるのを恐れたので、そのあとには同じ形の新しいダイヤルをつけて置いたのです。これが反って私に発見されたことになったじゃありませんか。――そして隠れたダイヤルの裏には、その男の指紋がありありと残っています。恐ろしい犯人の名は、勝見伍策と名乗る奴です」
「それでは、あの勝見さんが、犯人なのでございますか。しかしあの方は、姉の死には無関係だと伺いましたが……」
「そうです。本当の勝見伍策は、たしかに殺人犯人ではありません。そしてたしかに彼は島に暮しています」
「では、家に居るのは本当の勝見ではなかったのですか、まア……。しかし一体あれは誰でございましたかしら」
「お嬢さんは勝見が笛吹川画伯の屍体に附き添い、赤耀館を出て行ったのを御存知ですか。あの時までの勝見伍策は、正真正銘の本人でした。あれから五日ほどのちに帰って来た勝見、そして、丈太郎氏の死後に暇を貰って行ったまでの勝見は、全く偽物《にせもの》なのです」
「まア偽せの勝見でしたか。ではもしや……」百合子は言葉のあとを濁して、恐ろしそうに身震いをしたのでありました。
「そうです。あれは笛吹川画伯の変装だったのです」
「それでは笛吹川さんは、あのとき亡くなったのでは無かったのですか。それが今日まで、どうして知れなかったのでございましょう。あたくし、一寸信じられませんの」
「笛吹川という男は、世にも恐ろしい殺人鬼です。あいつは殺人の興味ために、あらゆる努力と、あらゆる隠忍とを惜しまない奴でした。心臓麻痺で死んだと見せかけたのは、彼が印度の行者から教わり、古書の中を漁《あさ》って研究した仮死法なのです。お通夜の夜、本物の勝見の手で彼奴はなんの苦もなく生きかえったのでした。私がそれを発見したのは、今戸の瑞光寺に埋葬してあった笛吹川の骨を掘り出したことに始ります。見れば壺の中に収められた骨は灰のように細いので、これは変だなと思ったのです。私はそれから日暮里の火葬場に行き、作業員の機嫌をいろいろととって見た上で、笛吹川の死体火葬当時のことを思い出して貰いました。笛吹川のことを思い出して呉れる特徴を彼等の前に提供することができたため、とうとう大変参考になる怪事実を知ることが出来たのです。作業員の話によると、骨の大きさから推して考えると笛吹川の身長は五尺以下であったそうで、その一事だけでも五尺六寸もある彼の身体が焼かれたのでないことが判ります。猶その上に、彼の骨は余りに焼けすぎてしまって、作業員が手にとると粉々に形を失ってしまうのでした。そんな実例は全く今までに見たことがなかったと、五十年もあの火葬場に居る留さんという爺さんが語りました。これから察するところ、笛吹川はどこかの医学校の標本室から、骨骼《こっかく》を盗み出して来て、彼自身の身代りとして棺中に収めたのでしょう。ここいらも、彼の周到な注意ぶりが窺われます。
 それから笛吹川の驚くべき陰謀としては、例の勝見伍策が、彼に全く酷似《こくじ》した容貌や背丈をもっているのを発見して巧く手なずけたのです。勝見は既に彼自身が病気に罹《かか》っているところから、今後の彼の生活を保障して貰うのを交換条件として、笛吹川の意志に従ったのです。笛吹川は顎鬚を剃りおとし、髪かたちから風貌までを整えて笛吹川の死後、五日目に赤耀館へのりこんだのです。それからのちのすべては、いと安々と彼の希望どおりに運んで行きました。綾子夫人も彼の執念ぶかい好色から手に入れてしまうことも出来ましたし、夫人の手を経て恋敵である丈太郎氏を殺し、嫌疑が夫人にかかるように計画したこともその通りに成功しました。彼が暇をとると、勝見を某所の温泉から島の療養所に移して巧みに勝見という人間の行動を不連続にならぬようはからったのです。夫人のヒステリーの昂《こう》じたころ、築地のホテルへ誘き出し、前代未聞の恐るべき手段を用いて夫人を殺しました。詳しいことを説明するのを憚《はばか》りますが、その夜、夫人が満悦したエクスタシーののち、恐らく笛吹川に渇《かつ》を訴えたのでしょう。笛吹川はそのとき自ら口移しに夫人にレモナーデ水を与えました。何もしらぬ夫人は、灼けつくような渇《かわ》きを医《いや》すため、夢中になってその甘酸っぱい水をゴクリと咽喉《のど》にとおしたとき、青酸加里のカプセルは笛吹川の口を離れて夫人
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