まれて来るのを、喜ぶようになったらしいのです。
あとの二つは、園芸と、物理学の実験とでありました。園芸の方は、半分は他人委せであったのにひきかえて、物理実験の方は一から十まで彼自身が手を下してやりました。それも人に煩わされることが多いというので、最近には、別に小さい物理実験室を、赤耀館から小一町も距《へだた》ったところに建てて、時には一日中も其の中に立籠《たてこも》っていることがありました。彼の実験は、勿論、博士論文を作ろうとするわけでもなく、普通の物理実験教材に散見する程度のもので、無線電信の時報信号を受けたり、毎日の温度や湿気や気圧の変化を調べたり、又好んで分析光学に関するものをやっていました。分光器の調整を壊されたり、X線発生装置の管球に罅《ひび》をこしらえられるのを嫌って、掃除人は勿論のこと、嫂さえなかなか入れず、いつもは、たった一つしかない表の入口に、複雑な錠前をかけて置くことにして居りました。
兄にとっては、実験に倦《あ》きると、花壇に出て、美しい花を摘み、夕餐《ゆうはん》がすむと、嫂と百合子と、執事の勝見を相手に麻雀を闘わすのが、もっとも彼の動的な生活様式で、あとは唯もう、赤耀館の中で瞑想に耽《ふけ》っているという風でした。
さて赤耀館を明るくするための麻雀競技会が六月の二十九日の夕刻から開かれました。八十名に近い若い麻雀闘士《マージャニスト》が、鯨ヶ丘の上に威勢よく昇って来ました。麻雀聯盟の委員長である賀茂子爵の鶴のような痩身の隣りには、最高の段位を持つ文士樋口謙氏の丸まっちい胡桃《くるみ》のような姿を見かけました。五月藻作氏と連れ立った断髪の五月あやめ女史や、女学校の三年生で三段の腕を持つ籌賀《ちゅうが》明子さんなどの婦人客が一座の中に牡丹《ぼたん》の花のように咲いていました。あちこちで起る笑声が、高い天井にまで響き上り、シャンデリアの光も、今宵はいつもより明るさを増していたようです。兄夫婦はこの上ない上々機嫌で、満悦の言葉を誰彼に浴びせかけていました。この陽気さに赤耀館の悪魔は今夜、どこかの隅へ追放されなければなりませんでした。
競技が始ると一座はしんとして来ました。折々「チー」や「ポン」の懸声があちこちに起り、またガチャガチャと牌《パイ》をかきまわす異国情調的な音が聴えて来ました。どうしても来ない客が二人ほどあったために兄夫婦はあとにのこっていなければなりませんでしたが、賀茂子爵のアドヴァイスにより、夫妻の卓《テーブル》には姪の百合子と執事の勝見とが入って競技をはじめることになりました。
二|荘目《そうめ》の東風戦《トンフォン》に、少女麻雀闘士の明子さんが、九連宝燈《チューレンポートン》という大役を作りあげたので、その卓の近所からはわッと喚声が湧き上りましたが、それを最高潮として、一座はだんだん気味のわるい静寂に襲われて来ました。兄夫妻の卓では、勝見がしきりに大当りをやっていましたが兄と嫂との方は一向にふるわず、二回戦の終りに兄は四千点以上も負けてしまいました。嫂は嫂で、何をぼんやりしていたものか満貫をふりこみました。百合子は、大して上手な方ではなかったが、兄夫妻の当らないためにか、すこし宛勝っていた様子でした。
第二回目の戦が終ったのが午後九時すこし前でした。皆はほっとした顔付で静かに煙草をくゆらしたり、貼《は》り出された得点表の前に雑談を交えたりしていました。いよいよ最後の第三回戦は九時五分過ぎから、始められるのです。手伝いに来ていたボーイが、冷たいレモナーデのコップを配りました。それは興奮を癒《いや》すための、まことに爽《さわ》やかな飲料でもあり、蒸し暑くなって来た気温を和げるための清涼剤でもありました。
「やあ、とうとう降って来た。凄い大粒だ」
窓近くにいた誰かが喚《わめ》くのをきっかけに、窓外の闇をすかして、銀幕を張ったような大雨が沛然《はいぜん》と降り下りました。硝子戸をバタバタと締める音がやかましく聴えます。その騒ぎの中に時計は九時を五分過ぎ、十分過ぎ、もうかれこれ十五分を廻りましたが、一向試合開始のベルが鳴る様子がありません。
「どうしたんです。主人公は?」賀茂子爵が苛々《いらいら》した風で、奇声を張り上げました。
「どう遊ばしたのでしょうか。私も先程から不思議に思っていたのでございますが……。少々御待ち遊ばして。お室を探して参りましょう」
執事の勝見が不安の面持で、急いで探しに行きました。しかし兄の姿は階上の私室にもなく、廊下にも発見することが出来ませんでした。階段の下で、これも兄を探しているらしい百合子と出会いましたが、彼女は、
「勝見さん、兄さんは屹度《きっと》実験室よ、行ってみて下さい」
「承知しました。――奥様は?」
「姉さんはあちらよ。姉さんがそう言ったわ、銚子無線の時報《タイム・シグナル》を聞きに行ったんでしょうって……」
勝見は本館を離れて屋外の闇に走り出ました。雨は今の大降りをケロリと忘れたように小やみになっていましたが、赤耀館の真上には、墨を流したような黒雲が渦を捲きつつ垂れ下っていました。
勝見が気でも変になったような大声を挙げ、競技会のある大広間に飛びこんで来たのは、それからものの五分と経たないうちでした。
「主人が実験室に卒倒して居ります。どなたか、手をお貸し下さい。早く、早く……」
こう叫ぶと彼は身体を飜《ひるがえ》して駆け出しました。一同は呀ッと声を合せて叫びましたが、勝見の後を追って戸外の闇の中に犇《ひしめ》きながら、実験室のある方向へ走って行きました。雨はもうすっかり上っていたようです。
実験室の建物は、四角な身体を、黒々と闇のなかに浮ばせていました。正面に長方形の扉が開きっぱなしとなり、黄色い室内の照明が、戸外にまで流れていました。それが黒猫の瞳《ひとみ》ででもあるかのように気味のわるい明るさを持っていました。
一同は雪崩《なだれ》を打って実験室の中へ飛び込んだものですから、またたく間に室の中は泥足で蹂躙《じゅうりん》せられてしまいました。兄は、自記式《オートグラフィック》の気温計や、気圧計や、湿度計がかけてある壁の際に、うつぶせになって仆れていました。勝見と賀茂子爵とが兄の身体を卓子《テーブル》の上に移しました。そのとき卓子の上に、コップが一つ置かれていましたが、その底には僅かにレモナーデの液体が残っていたそうです。嫂は物も得言《えい》わず、ただうちふるえて兄の身体をゆすぶっていましたが、百合子が「姉さん、しっかりして頂戴」と後から囁《ささや》きますと、そのままとうとう百合子の腕の中に気を失ってしまいました。それで騒ぎは益々大きくなって行ったのです。一座の中には、医学博士やドクトルも居たので、両人には割合に手早く手当が加えられました。嫂は、まもなく蘇生《そせい》して、元の身体に回復しましたが、兄の方は遂に息を吹きかえしませんでした。その死因は、たしかなこととて判らないのですが、心臓麻痺らしいという見立てでありました。死因に疑いを挟んだ医学者も居たのでしょうが、その場のことですから口を緘《かん》して語らなかったのでしょう。こんな風にして、兄はとうとう赤耀館の悪魔の手に懸ってしまったのです。
麻雀競技会は勿論中止となり、参会者はこの不吉な会場からそれぞれ引上げようとした時、ドヤドヤと一隊の警官や刑事が大広間に入って来たので、一座は俄かに緊張の空気に圧《お》されて息ぐるしくなりました。この前、笛吹川画伯のとき検屍にやって来た尾形警部の姿が、警官隊の先頭に見えましたが、警部は興奮をやっと怺《こら》えているらしく病人のような顔に見えました。
「皆さん、まことにお気の毒に存じますが、一通り本件の取調べがすみますまで、この室から一歩も外へお出にならぬように……。これは警視庁からの命令でございます」
警部が開口一番、いきなり厳然たる申渡しをいたしましたので、一座は不安とも不快ともつかぬ気分に蔽われてしまいました。中には、赤耀館にフラフラ迷い込んで来たことを一代の失敗のように愚痴《ぐち》るひともありましたし、又、医師は心臓麻痺で頓死したというからには普通の病死であるものを、なぜ犯罪事件らしい取扱いをし、我々の迷惑をも顧みず、この夜更けに留め置くのかと、不平を並べる人もありました。兄を診察した医学者たちは、警部の後に随《したが》って、大広間を出て行きました。実験室へ一行は入ってゆきましたが、泥田のように多勢の人々によって踏み荒された室内の有様を一目見た警部は、とうとう怺えかねたものと見えて「しようがないなア、チェッ」と舌打ちをしたことです。
実験室で早速訊問が開始せられました。嫂、百合子、勝見やボーイ、女中をはじめ、看護をした医学者たちを通して知ることの出来た事実は、極く僅かなものでした。それを綜合してみると、兄は九時の無線時報信号を聴取するために、その時刻にこの室を訪れたこと、しかし連《つ》れがあったか、又は無かったかは不明なること、レモナーデのコップは兄が持って来たのか又は他の人が持って来たのか不明であるが、兎も角も卓子の上にのっていたこと、但しボーイは兄にレモナーデを手渡しした覚えのないこと。兄の死は急死であり、時刻は九時から九時十五分までの間であること、凡《およ》そこればかりの貧弱な材料でした。
医学者に対しては、病死と変死との孰《いず》れであるかという質問が発せられましたが、その答えはどれも不決定的なものであり、解剖を待つより外に死因を決定する手段はあるまいとのことでした。警部は早速屍体解剖の手続をとるよう部下の警官に命じました。
兄の死の前後の様子も調べあげられました。が、実験室に行ったことを嫂が知っていたのは、それが兄の毎日の習慣だったからであるということでした。嫂の外には、その習慣を知っている者はありません。その時間に何処にいたかという質問が、関係者一同に発せられました。嫂は、一寸自分の室へ休憩に行ったと言いました。百合子は大広間へのレモナーデの準備をお手伝いさんたちとしていたと言いました。勝見は廊下に立ってボーイを指揮したり、賀茂子爵のお相手をしていた。これは子爵やボーイに聞いて貰えば直ぐにわかることだ、と陳述いたしました。ボーイは、勝見の指揮を受けたことを覚えていましたが、勝見がいつも廊下に立っていたかどうかは知らないということでした。百合子と一緒に働いていたお手伝いさんは、百合子が別に勝手元を離れたことはなかったようだと証言しました。しかし嫂が私室へ入るのを見たという雇人は、不幸にして見当りませんでした。何しろ混雑の折柄のことですから、皆の行動の立証方法の甚だ曖昧《あいまい》であったのも已《や》むを得なかったことでしょう。
次に警部の一行は、室内捜査を開始いたしましたが、尾形警部は、ここで再び、いまいましそうに舌打ちをいたしました。というのは兄の死後、多数の人達がワッと押しかけて来たため、参考になるようなことが全く判らないのです。警部は、犯罪捜査に当る者の直感から、またつい先頃の笛吹川画伯の頓死事件と本件とを照し合わせた結果、兄の死は充分、他殺であると疑っていいと思っている様子でありました。室の中を、あちこちと探しまわっていた警部の顔は、だんだんと曇って来ました。とうとう彼は室の真中に棒立ちとなって呻《うめ》くようにこんなことを呟《つぶや》いたのでありました。
「この室に残された記録から、犯人を探し出すことは絶望である。コップの上に印された指紋をとろうと思えば、まるで団扇を重ねたように沢山の人々の指紋だらけで識別もなにも出来たもんじゃない。この泥足の跡も結構だが、これでは銀座街頭で足跡を研究する方がまだ容易かも知れない。犯行時間に確実なる現場不在証明《アリバイ》をなし得る人間は九十名近い人達の中で二十名とあるまい」
「この証拠湮滅《しょうこいんめつ》は、あまりに立派すぎる。偶然にしてあまりに不幸な出来事だし、若し故意《こい》だとするとその犯人は鬼神のような奴だと言わなければならない。他殺の証拠を
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