たものですから、勝見は「呀《あ》ッ……」と驚いて壁ぎわに身をよせました。
「だ、だ、旦那様が……」勝見は生唾《なまつば》をごくりと呑みこみました。
「ちがう。ちがうよ。奴は死んだか、どうだか、一寸調べてくれないか」
「た、短刀を、おしまい下さい。た、短刀を……」
「なに、短刀を……」兄はやっと気がついたものと見えて、自分の手に堅く握られた短刀を発見すると声をあげてそれを床の上になげ落しました。
勝見は、恐る恐る笛吹川画伯の身体にふれて見ました。生温い体温を掌《てのひら》に感じて、いやな気持になりました。息は止っています。手首をとりあげて見ましたが、脈はありません。身体をひっくりかえしてみましたが、別に短刀で突いた傷のある様子もありません。くいしばった唇から、糸を引いたように赤い血が流れていました。両眼はつるし上って、気味のわるい白眼を剥《む》いていました。多分|瞳孔《どうこう》も開いていたことだったでしょう。体温はすこし下って来たような気がします。
「駄目らしいようでございます。息も脈もないようでございます」
「脈も無い――大変なことになっちまった」
「医者を呼びましょうか」
「ウン、呼びにやって呉れ」兄は眼を閉じたまま、そう言いました。
「警察の方は、届けたもんでございましょうか」
「なに警察! 届けないといけないだろうか」
「兎も角も、医者が参った上での相談にいたしましょうか」
「そうしてくれ給え、その方がいい」
「短刀を、ひき出しの中へでも、おしまいになっては如何ですか」
「そうだ。そうだった。僕が奴をころしたんでないことは、お前も知っているだろう」
「私は信じます。短刀は、唯、手に遊ばしていただけと存じます」
「そんならお前は、僕に殺意があったと……。ウ、ウ……おれにも判らない」
医者の来たのは五十分の後のことでした。早速カンフルを打ってみましたが、反応はありません。もうチアノーゼが薄く現われていましたし、身体もずんずん冷えて行くようでした。心臓|麻痺《まひ》で死んだことは医者の口を借りるまでもありません。
医者の厚意で、警察の検視もこれに引続き至極簡単にすみました。唯、笛吹川画伯の臨終を見ていたものは、兄だけだったというので、一寸した訊問が尾形警部の手で行われました。
「貴方の外《ほか》に画伯の臨終を見た人はありませんか」
「私と対談中に倒れたのでして、外にはないようです」
「どんな風に倒れましたか」
「すこし興奮した様子で、安楽椅子から立ち上りましたが、ウンと言うなり床の上に倒れたのです。その時、卓《テーブル》を倒したものですから、その上に載っている茶碗などが壊れてしまいました」
「対談中、だれかこの部屋に入って来たものはありませんか」
「執事の勝見が案内して来たのと、姪の百合子がお茶などを運んで来たきりでした」
「貴方が中座されたようなことはありませんか。又は画伯のことでもいいのですが」
「私は中座しなかったように思います。画伯も中座しなかったろうと思いますが、よく気をつけていませんでした」
「よく気をつけていなかったとは、どういう意味ですか」
「一寸しらべものをやっていたので、注意力が及ばなかったかも知れないというのです」
「対談中、お仕事をなさっていたのですナ」
「まア、そうです」
「お話はどんな種類のことですか」
「そ、それは、まア早く言えば僕等の新婚生活をひやかしていたのです」
「ハア、なるほどそうですか。奥様はどちらにいらっしゃいますか」
「一寸おひるから友達のところへ出掛けましたがネ、もう帰って来る頃でしょう」
「いや、どうもお手数をかけました」
尾形警部は、執事と百合子とを呼び出して兄と笛吹川画伯対談の様子を一寸訊問すると帰って行きました。彼等はつまらぬ係《かかわ》り合《あい》になってはと思ったものか申し合わせたように兄と笛吹川画伯との争論を耳にしたことは言いませんでした。警部が帰ると入れちがいに嫂が入って来ましたが、思いがけなくこの事件のことを聞いたものと見えて、真蒼《まっさお》な顔をしていました。
「あなた、笛吹川さんが此処へいらしって、頓死なすったんですって? 本当ですか」
「嘘にも本当にも、先生あすこに眠っているよ」と隣室の寝台を指しました。
「眠っている! 死んだのではないのですか」
「いや死んだのです。心臓麻痺だとサ」
「心臓麻痺だと言いましたか。笛吹川さんは何時此処へいらしって」
「三時過ぎだったよ、どうして」
「ハア――なんでもないのよ」
笛吹川画伯頓死事件は、こうして片付きました。夜に入ると匆々《そうそう》、画伯の屍体は、寝台車に移し、赤耀館からは四里も先にある、隅田村の画伯の辺居へ送りとどけることにしました。ついて行ったのは、執事の勝見と、手伝いの伴造との二人だけでした。執事は笛吹川画伯の世話で、赤耀館に勤めるようになった関係上、それからまた、画伯に縁者のないため死後の後始末をして来るため、このところ数日の暇を貰って行ったのです。
赤耀館では其夜も更けて一時とも覚しき頃、今夜は帰って来ないと思われた手伝いの伴造がひょっくり裏門から入って来ました。翌朝になって其の報告をするとて、兄夫妻の前に出て来た伴造は、昨夜の様子をこんな風に語りました。
「笛吹川さんのお家は、迚《とて》も淋しいところでがす。あたりは三方、大きな蒲《がま》の生えている沼でしてナ、その一方には、崩れかかったような家が三軒ばかり並んでいるのでさア。笛吹川さんのお家は一番奥にありまして、これは門もついて居り、古いけれど一寸|垢《あか》ぬけのした家です。
あの方は画かきだとばかり思っていましたが、中々勉強もなさると見えて、どの壁も本棚でギュウギュウ言っているんです。お通夜《つや》に来た、ご近所の三人の人たちも、こんなに本のある家は、見たこともない。上野の図書館とかにでも、真逆《まさか》、この倍と本があるわけじゃなかろう、と言っていましたよ。こんな勉強をなさる方が亡くなったのは、全く惜しいものだ、これはきっと勉強がすぎたんだろう、ずいぶん夜も遅くまで御勉強のようでしたからな、と其の人達は言ってましたよ、へえ。
今夜は是非、お通夜をしましょう、という話でしたが、勝見さんが、わしにもう九時だから、けえれ、けえれと言うのです。わしも通夜するだと言いましたけンどな、勝見さんはそいじゃお邸が不用心だからどうしても帰って呉れと言うのでがす。じゃ帰ることにしようと、尻を持上げましたがナ、今度は勝見さんが近所の人に、引取って呉れ引取って呉れと言ってましたよ。勝見さんは、あんな淋しい処で、死人と一緒に居て怖がらないんですぜ、わしなら、真平御免でがす」
伴造から勇気を推奨せられた執事の勝見は五日経って、十五日に邸へかえって来ました。すこしやつれた様子だったが、元気はよかったのです。いつもよりハキハキと用事を勤めているように見えましたが、兄の眼には、勝見の態度が、反って変に白々しく映《うつ》ったのでした。自分が短刀を持っていたのを殺意ありと解した勝見は、それ以来、自分を敬遠しているのに違いあるまいと思われたのです。勿論勝見は其の夜のことを再び口にしなかったし、兄も言い出しはしなかった。兄は勝見に暇を出したくはあったが、例のことを喋《しゃべ》られるのを恐れて、絶対に馘首が出来ない。それでますます、勝見が悩しき存在となって来たのでありました。
ところが、兄は更に勝見に対するこだわりを深くしなければならないことになったのです。いや、そればかりではなく、彼の恋女房である綾子をさえ、真面《まとも》に見ることができなくなったのです。それは、勝見が笛吹川画伯の埋葬を済ませて帰って来てから、一週間ほどのちの出来事でした。兄が綾子の室へ用事があって扉《ドア》の把手《ハンドル》に手をかけたとき、何事にも気が付かないような熱心さで、綾子と勝見が言い合っているのを聞いてしまったのです。
「笛吹川さんは、ほんとうに死んだの」
「本当でございます。お疑いならば日暮里の火葬場へお尋ね下さい。それから画伯の骨を埋めた今戸の瑞光寺へお聞き合わせ下さい。しかし何故、奥様はそんなことをおっしゃるのです」
「わたしには、あの人が死んだように思われないの。あの通りエネルギッシュな笛吹川さんが、そう簡単に死ぬもんですか。ことに心臓麻痺で頓死なんて、可笑《おか》しいわね」
「可笑しくても仕方がありません。画伯はもう骨になっています。それでも死んでいないとおっしゃるのですか」
「あんたの言うようなら、死んだのに違いないでしょう。しかしわたしの直感を正直に言ってしまえば、笛吹川さんは、死んでいないか、さもなければ、誰かに殺されたのに違いない。――あんたは何か知っているのでしょう」
「はい、私は二三のことを存じて居ります」
「言ってごらんなさい、なにもかも」
「では申しあげます。先ず第一に、笛吹川画伯の亡くなった時刻に、奥様は何処にいらっしゃいましたか?」
「まア、お前は……。何を失礼なことを考えているんです。わたしは、どこにいようと、余計なお世話です」
「失礼だとあれば、私は追窮《ついきゅう》はいたしますまい。しかし万一、捜査課の警部たちがひきかえして来て、奥様にこの質問をいたしたものと仮定しますと、唯失礼だと許《ばか》りで追払うことは出来ますまい。不幸にもあの時刻に於ける奥様の現場不在証明《アリバイ》は不可能でいらっしゃいましょう」
「……」
「第二には、旦那様のご存じないところの、笛吹川画伯と奥様との御交渉でございます。これも失礼と存じますので、内容は申しあげません。第三に……」
そのとき兄は、大きな咳払《せきばらい》と共に、重い扉を押して室内に入って来ました。勝見は白々しく敬礼を捧げましたが、再び嫂の方に向い、
「では麻雀《マージャン》競技会にいらっしゃるお客様は、八十名と考えましてお仕度をいたしましょう。会場は階下の大広間を当てることにいたしましょう。卓《テーブル》の方は、早速、聯盟の事務所と打合せまして、ハイ、もう外に伺《うかが》い落したことはございませんか。では……」
勝見はすこしも臆《わるび》れる様子もなく、扉をあけて去りました。兄夫婦の間には、しばらく白々しい沈黙が過ぎて行きました。
「あなた、このごろ勝見の様子が、どこか変じゃありませんこと?」
「笛吹川が亡くなったので、気を落しているのだろう」
「そうでしょうか。勝見が独りでいるところを横から見ていますと、何かに憑《つ》かれているようなんですよ。話をして見ても、言語のはっきりしている割合に、どことなく陰険《いんけん》なんです。それに勝見はこんな顔をしていたかしらと思うこともあるのです。あの眼。このごろの勝見の眼は、死人の腐肉を喰べた人間の眼ですよ」
「そりゃ、よくないね。君は神経衰弱にかかっているようだよ。養生しなくちゃ……」
「神経衰弱なんでしょうか?……でも気味が悪いんですもの。わたしもあの男に喰べられてしまうかも知れないわ」
「馬鹿なことを言っちゃいけない。だからこれからは、麻雀競技会を時々開いて大勢の人に来て貰うのさ。今に、親類のように親しくなる人が三人や四人は出来るよ」
「勝見に暇をやることはいけなくって?」
「ウム。いけないこともないが、時期がある。つまらないことを喋られてもいやだからな」
「私はもうこの館《うち》が、いやになったわ」
兄は毎日を家の中に居て、別にすることなく暮していました。言わば、典型的な有閑階級に属する人間でした。そういう種類の人間は必ず何か趣味を持っているものなのですが、兄の場合には強いて挙げるならば三つの趣味とも娯楽ともつかないものを持っていました。
その一つは、麻雀でした。彼はこの勝負事に一時かなり熱中したことがありました。多分最初は、麻雀という時間のかかる競技が、彼のように多くの閑を持つ人間を、無聊《ぶりょう》から救ってくれたからでありましょう。しかし段々と競技をすすめて見ると、一か八かの勝敗から、その日、その月の彼の運命が勝負の中に織りこ
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