厚い扉《ドア》をとおして廊下にまで、きこえたそうです。笛吹川画伯は兄と以前はほんとに仲のよい親友だったのです。識《し》り合ったのは、そんなに古くからではなかったようですが、どこか大変性分の合うところでも発見したものか、二人は兄弟以上の親しさを加えました。それが嫂――当時の綾子嬢が二人の間に挟《はさ》まると、今度は恐ろしいほどの敵同志になってしまったのです。その激しい愛慾の闘争は、かれこれ半年もうちつづいたようでした。どうした風の吹きまわしか、綾子嬢は兄の腕にしっかり抱かれてしまいました。失恋した笛吹川画伯の様子は珍無類でした。彼は泪を滾《こぼ》したり、無口の人となる代りに、大層快活になり、能弁家になりました。一間に閉じこもって破れて落ちる文殻《ふみがら》を綴り合わせているどころの話ではなく、彼は毎日のように顎髯《あごひげ》をしごき乍ら、赤耀館へ憎々しい姿を現わしました。彼は兄の前で、皮肉と呪いの言葉を無遠慮に吹きかけては喜んでいるらしい様子でした。兄には彼が、この上もなく恐ろしい人間に見えました。あれ以来というものは、快活を装う半面に於て、不思議な魅力を加えた彼の眼光と、切々と迫る物狂わしい彼の言葉とは、地獄を故郷に持っているらしい画伯の正体を見せつけられたような気がするのでした。そうかと言って、兄はほんの少しだって、彼の失恋に同情心なんか起し得なかったのです。それは兄の無情のためというよりも、笛吹川画伯の態度があまりに同情を受けない程度の憎々しさに満ちていたがためでしょう。
 赤耀館の大時計がにぶい音響をたてて、四時を報ずると、兄の居間にあたって突然奇妙な声がきこえ、それに続いて瀬戸物《せともの》のこわれるような鋭い音がしました。そして五分も経ったと思われるころ、執事を呼ぶベルの音が階下に鳴りひびいたのでした。
 執事の勝見は私室から飛び出すと、階上の兄の室を指して、駆け出しました。何故彼がもっと前に、二階へ駆け上っていなかったのか、一寸不思議でなりません。
 勝見が兄の部屋の扉《ドア》を開くと、直ぐ足許に、笛吹川画伯が仆《たお》れているではありませんか。兄は椅子の中にうずくまった儘《まま》、顔には血の気もありません。
「い……医者を呼びましょうか」と勝見は兄の救いを求めるかのように、叫びました。
「待て……」と言って兄がふりあげた右手に、細身の短刀がキラリと光ったものですから、勝見は「呀《あ》ッ……」と驚いて壁ぎわに身をよせました。
「だ、だ、旦那様が……」勝見は生唾《なまつば》をごくりと呑みこみました。
「ちがう。ちがうよ。奴は死んだか、どうだか、一寸調べてくれないか」
「た、短刀を、おしまい下さい。た、短刀を……」
「なに、短刀を……」兄はやっと気がついたものと見えて、自分の手に堅く握られた短刀を発見すると声をあげてそれを床の上になげ落しました。
 勝見は、恐る恐る笛吹川画伯の身体にふれて見ました。生温い体温を掌《てのひら》に感じて、いやな気持になりました。息は止っています。手首をとりあげて見ましたが、脈はありません。身体をひっくりかえしてみましたが、別に短刀で突いた傷のある様子もありません。くいしばった唇から、糸を引いたように赤い血が流れていました。両眼はつるし上って、気味のわるい白眼を剥《む》いていました。多分|瞳孔《どうこう》も開いていたことだったでしょう。体温はすこし下って来たような気がします。
「駄目らしいようでございます。息も脈もないようでございます」
「脈も無い――大変なことになっちまった」
「医者を呼びましょうか」
「ウン、呼びにやって呉れ」兄は眼を閉じたまま、そう言いました。
「警察の方は、届けたもんでございましょうか」
「なに警察! 届けないといけないだろうか」
「兎も角も、医者が参った上での相談にいたしましょうか」
「そうしてくれ給え、その方がいい」
「短刀を、ひき出しの中へでも、おしまいになっては如何ですか」
「そうだ。そうだった。僕が奴をころしたんでないことは、お前も知っているだろう」
「私は信じます。短刀は、唯、手に遊ばしていただけと存じます」
「そんならお前は、僕に殺意があったと……。ウ、ウ……おれにも判らない」
 医者の来たのは五十分の後のことでした。早速カンフルを打ってみましたが、反応はありません。もうチアノーゼが薄く現われていましたし、身体もずんずん冷えて行くようでした。心臓|麻痺《まひ》で死んだことは医者の口を借りるまでもありません。
 医者の厚意で、警察の検視もこれに引続き至極簡単にすみました。唯、笛吹川画伯の臨終を見ていたものは、兄だけだったというので、一寸した訊問が尾形警部の手で行われました。
「貴方の外《ほか》に画伯の臨終を見た人はありませんか」
「私と対談中に倒れたのでし
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