任であった人です。
貴方の異常な熱心さと、私の傾きかけた健康状態とが、とうとう今夕の機会を作りあげて呉れました。もはや御察しのとおり、あの赤耀館事件には、発表されていない怪事実が二重にも三重にもひそんでいるのでして、それを本当に知っているのは、私一人に違いないのです。実を言えば、私自身すら、まだはっきりと知ることの出来ない事件の一部分があるのではないかと思うのですが、それは多分、此の種の魅惑《みわく》に満ちた事件が発散する香気のようなものに過ぎないのでしょう。兎《と》も角《かく》も、赤耀館事件につき最も多くの事実を知っている者は、私を除いて外に絶対にあり得ないのですから……。
この赤耀館という洋館は、誰が建てたものであるか、年代はいつ頃だったのか、それは不思議にも薩張り判っていません。しかし何でも大変古い赤煉瓦を使った洋館であることと、設計者が仏蘭西《フランス》人らしいということは噂になっています。出来たのは多分明治の初年か、またはもう二三年も前だろうと思われますが、そのころこの周辺は今よりも更に更に草深いところであって、其の当時、どうして人間が住むことが出来たろうかと、寧《むし》ろ不思議にたえません。その赤耀館を私の祖父に当る松木龍之進が大警視時代にどうしたものか手に入れてしまったのです。それは今から五十年も前のことなのです。勿論、自分のものにはしたものの、この中に住もうなどとは思っていませんでした。私の父の龍太の時代になって、東京が郊外に膨脹をはじめ、電車もひけるようになってから、初めて松木家の全家族がここに移り住むことになったのです。
しかしそれからというものは松木家には不思議な魔の手が伸びたらしく、母が死ぬ、父が続いて亡くなる、妹が死ぬといった風でした。父は一人児だったし、母の里にも誰も生きのこっては居なかったので、私達の一家は全く心細い限りでした。不思議なことに、先代の赤耀館主人であった私の亡兄丈太郎の妻、つまり私にとっては嫂《あによめ》にあたる綾子《あやこ》も、係累《けいるい》の少い一人娘だったのです。嫂には姪《めい》に当る梅田百合子というのが唯一の親族でした。この百合子は、実は私の妻になっているのです。
父母と妹とが亡くなってから此方十年あまりと言うものは、私達一家は割合に呑気に、そして幸福に暮していました。兄が前に申した綾子と結婚すると、私は間もなく独逸《ドイツ》へ遊学にでかけました。兄はたった一人の同胞に別れるのが大変に辛いと申しました。しかし兄は、長い間のはげしい恋をしてやっと獲ることの出来たいわば恋女房と、これからは差向《さしむか》いで暮すわけなのですから私は唯もう兄の弱気を嗤《わら》って独逸へ出発いたしました。それは今から三年前の冬のことなのです。私はカールスルーエの高等工学院に旅装をとき機械工学の研究のため学校の中に起居していました。そこでは人に応接する面倒もなく、穴蔵の中で自由な研究時間を持つことが出来ました。故国からは、たまに兄や嫂からの手紙を受けとりましたが、文面の隅から隅まで、まるで薔薇《ばら》の花片を撒《ま》きちらしたように、桃色の幸福に充ちて居り、不吉な泪《なみだ》のあとなどはどんなに透《す》かしてみても発見することができなかったのでした。赤耀館の悪魔は、もう十年この方、姿を現わさない。悪魔は我が家の棟《むね》から永遠に北を指して去ったものとばかり思って、すっかり安心をしていました。
それだのに、一昨年の春になって、悪魔は突然、我が家のうちに再び姿を現わしました。悪いことには、悪魔は十年の間、血に飢えていたせいか、その呪《のろ》いの被害もこれまでに見られないほど残虐を極めたものでした。いわゆる「赤耀館事件」なる有難くない醜名を世間に曝《さら》すことになったのです。そして一昨年の春、くわしく言えば六月十日に、折柄来訪して来た笛吹川画伯の頓死《とんし》事件を開幕劇として怪奇劇は今尚、この館に上演中なのです。
笛吹川画伯は、その日、午後三時をすこし廻ったと思う頃、赤耀館の玄関にひょっくりその姿を現わしました。執事《しつじ》の勝見伍策というのが出迎えましたが、直ちに私の兄で、赤耀館の当主であった丈太郎に取次ぎましたが、兄は舌打《したう》ちをして顔の色さえ変えました。勝見に会見の諾否を伝えようと思っている間に、入口の扉を乱暴に開くと、笛吹川画伯がぬからぬ顔を真正面に向けて入って来ました。
「無断で入って来ちゃ困るじゃないか」と兄は唇をワナワナふるわせて呶鳴《どな》りました。
「馬鹿を言え、貴様から礼儀だの修身だのというものを聞こうとは思わんよ」と大口を開いて高らかに笑い、無遠慮に側《かたわ》らの安楽椅子を引きよせました。勝見は顔を曇らせて此の室を去りました。
それから時々激しい声音が、
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