のです。今、六月二十九日の午後九時前後に於ける此の室の温度と湿度と気圧の記録をぬき出して一枚の紙の上に書き並べてみますと、こんな具合になりました。(と、別紙のような曲線図を示す)九時前後に於て三曲線は特異な変化を表わしているではありませんか。私共にとって幸いなことには、当夜、東京附近は急激なる気象の変化をうけたものですから、室内と室外の気象状態にすくなからぬ懸隔《けんかく》ができたため、実に著《いちじる》しい曲線の変化が起ったのです。この曲線の左の方を見ますと、横軸に記された通り、午後八時五十五分、五十六分、五十七分の附近では、湿度と気温はぐんぐん昇っているのに反し、気圧はだんだん下っています。しかしこれ等の変化はまことに円滑《スムース》に動いています。然《しか》るに八時五十八分になって、三曲線が折れたような変化をしています。湿度のごときは急に昇り、温度も著しく上を向き、気圧は急降しています。これは何を意味するかと言いますと、此の室の扉《ドア》を開けたため、室内へ室外の気象状態がサッと浸入して来た結果、ひきおこされたわけなのです。五十九分頃には三曲線は、再び同じ位の傾斜で動いています。扉がすぐに閉じられたため、室内の気象の変化は、また前のように立ち還《かえ》ったせいでありましょう。ただ、室内温度がやや著しい上昇ぶりを示しているのは、この室に新たに人が入って来て、それも割合に温度計の近くにいたためか、それとも中の機械を運転したためにその各部から発散される熱量の影響であるかの、何《いず》れかです。私の推測では、五十八分に入って来たのは丈太郎氏であり、時報《タイム・シグナル》をうけるために室内に電灯を点じ、無線送受信機が動作を始めたせいだと思っています。
午後八時六十分――つまり午後九時になって、三曲線は再び折れたような変化を示しています。ことに面白いと思う点は、今度の変化は、先に起った五十八分における変化とは大分趣きを異にしていることです。気圧の変化は、同じ様ですが湿度の激しい増大ぶりと、室内温度が前とは反対に下り始めていることは著しい特徴だと言わなければなりません。これは一体、何を物語っているのでありましょうか。……私の考えによると、丁度九時になって一人の人間が全身ずぶ濡《ぬ》れになって此の室に飛びこんで来たのです。そのために濡れた水分が室内に蒸発をはじめて急に湿度が高くなりました。蒸発作用の潜熱によって室内の熱量は奪われ、さてこそ室内温度の下降を導くに至ったのです。それから三分ほど経って、湿度と温度の曲線は、常識では考えられぬほどの異常な変動を生じています。すなわち、湿度は九十五パーセント近くに昇り、温度は華氏で十五度も急降しているではありませんか。これは濡れた衣服を着た人間が、この計器にふれんばかりの近くにすすみよったことを示すものなのです。恐らく湿度計は乾湿《かんしつ》ハイグロメーターの湿球のような状態におかれ、水銀は急に熱を奪われて萎縮《いしゅく》したことでしょうし、湿度計の方は、その傍に居る人の衣服がポッポッと湯気《ゆげ》を出して乾燥中であるために殆んど飽和状態に近い湿度を記録したのでありましょう。三分以後は三曲線とも元のように帰ろうとしていますが、九時五分に至って、最後の階段的変化を示しています。この変化は割合に緩慢な動きをとり、ことに気圧の如きは点線で示すような当夜中央気象台でとった気圧変化と、九時十分頃には完全に一致しているところから観察して、これは多分、実験室の扉が午後九時五分|過《すぎ》に開放された儘、放置されたため、室内の三計器は屋外の気温、気圧、湿度と一致するに至ったものだろうと思います。誰か遽《あわ》てて室外に逃げ出した者のある証拠です。
[#図1、湿度・気温・気圧曲線]
ところが只今、X線を壁に当てて見ました結果、気圧計などのすぐ近くに、異形のものを発見しました。これはまだ新しい壁の上に水分をたっぷり含んだ物体がおしつけられたため、水を吸収した部分と物質だけが極くこまかい結晶をつくり、それがためにX線を当ててみると他の部分とはまるで違った表面になっていることが判ったのです。その結果は、壁の上に鉛筆で記したとおりで、しかもそれが綾子夫人以外の誰でもないことが明白になりました」赤星探偵はこう言って、ホッと吐息《といき》を洩《もら》したのです。
「では姉が……」百合子は愕《おどろ》きのために目を大きく瞠《みは》って叫ぶように申しました。「姉が兄を殺したのでございますか」
「お嬢様、私たちの失敗は、そこにあるのです。ごらんなさい。綾子夫人の像から二寸ばかり離れた場所に、大きな手の跡がX線によって発見されています。これは丈太郎氏の右手なのです。綾子夫人を壁ぎわに押しつけたとき丈太郎氏の手は夫人の濡れた衣服を
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