子も調べあげられました。が、実験室に行ったことを嫂が知っていたのは、それが兄の毎日の習慣だったからであるということでした。嫂の外には、その習慣を知っている者はありません。その時間に何処にいたかという質問が、関係者一同に発せられました。嫂は、一寸自分の室へ休憩に行ったと言いました。百合子は大広間へのレモナーデの準備をお手伝いさんたちとしていたと言いました。勝見は廊下に立ってボーイを指揮したり、賀茂子爵のお相手をしていた。これは子爵やボーイに聞いて貰えば直ぐにわかることだ、と陳述いたしました。ボーイは、勝見の指揮を受けたことを覚えていましたが、勝見がいつも廊下に立っていたかどうかは知らないということでした。百合子と一緒に働いていたお手伝いさんは、百合子が別に勝手元を離れたことはなかったようだと証言しました。しかし嫂が私室へ入るのを見たという雇人は、不幸にして見当りませんでした。何しろ混雑の折柄のことですから、皆の行動の立証方法の甚だ曖昧《あいまい》であったのも已《や》むを得なかったことでしょう。
 次に警部の一行は、室内捜査を開始いたしましたが、尾形警部は、ここで再び、いまいましそうに舌打ちをいたしました。というのは兄の死後、多数の人達がワッと押しかけて来たため、参考になるようなことが全く判らないのです。警部は、犯罪捜査に当る者の直感から、またつい先頃の笛吹川画伯の頓死事件と本件とを照し合わせた結果、兄の死は充分、他殺であると疑っていいと思っている様子でありました。室の中を、あちこちと探しまわっていた警部の顔は、だんだんと曇って来ました。とうとう彼は室の真中に棒立ちとなって呻《うめ》くようにこんなことを呟《つぶや》いたのでありました。
「この室に残された記録から、犯人を探し出すことは絶望である。コップの上に印された指紋をとろうと思えば、まるで団扇を重ねたように沢山の人々の指紋だらけで識別もなにも出来たもんじゃない。この泥足の跡も結構だが、これでは銀座街頭で足跡を研究する方がまだ容易かも知れない。犯行時間に確実なる現場不在証明《アリバイ》をなし得る人間は九十名近い人達の中で二十名とあるまい」
「この証拠湮滅《しょうこいんめつ》は、あまりに立派すぎる。偶然にしてあまりに不幸な出来事だし、若し故意《こい》だとするとその犯人は鬼神のような奴だと言わなければならない。他殺の証拠を見付けることは困難だ。結局病死とするのが一番平凡で簡単な解決だ。しかし自分は到底《とうてい》それで満足できないのだ。この上は屍体解剖の結果を待つより外はあるまい」
 尾形警部は大広間に帰って来ました。無駄とは思いながらも、八十名の参会者を片っ端から訊問して行ったのです。その結果は予期の通りで別にこれぞと思う発見もなく、それかと言って事件に関係のないことを保証することも躊躇《ちゅうちょ》されたのです。警部は我が身を、フィラデルフィア迷路の中に彷徨《ほうこう》しながら精神錯乱した男に較《くら》べて、脳髄のしびれて来るのを感じたことでありました。
 兄の屍体は法医学教室で解剖に附せられました。其の結果を受けとった尾形警部は、力もなにも抜けてしまって、机の上に顔を伏せました。報告書には次のような意味のことが書いてあったのです。
「自然死か毒死かの判別は不幸にして明瞭でない。毒死を立証する反応は明瞭に出て来ない。それかと言って自然死であるとも言うことが出来ない。たとえば微量の青酸中毒による死の如き、これである。今日の科学はこの程度の鑑別をするだけに進行していないことを遺憾とする」
 最後の望みの綱も切れてしまったので、警部の無念を包んだまま、兄の急死事件も抛棄せられました。独逸に居た私は、嫂からの急電により、この変事を知りましたが、即刻帰朝の決心をし、その旨を嫂に向けて返電いたしました。しかし、如何に早く帰国したいと言って、西伯利亜《シベリア》鉄道を利用することも、米国まわりにすることも、私の健康が許されそうもなかったので、矢張り四十日を費して欧州航路を逆にとることにしました。このことは電報の中に書いて置いたのです。
 一方、兄の急死によって陰鬱《いんうつ》さを増した赤耀館では、雇人が続々と暇を願い出ました。嫂も百合子も、盛んに慰留しましたが、彼等はどうしても止《とど》まろうとは申しません。勝見は嫂や百合子と雇人たちの間に立って苦しんでいましたが、遂に彼自身すら、暇を願い出るようなことになりました。
「勝見さんも止したいというの。皆の真似《まね》をしなくてもいいでしょう」と百合子が皮肉めいた口を利きました。
「決してそう言うわけではありません。唯私の健康状態が許しませんので……」
「あんたが居なくなっちゃうと、今度は、姉さんの健康状態がわるくなってよ」
「どういたしまして。お
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