無線の時報《タイム・シグナル》を聞きに行ったんでしょうって……」
勝見は本館を離れて屋外の闇に走り出ました。雨は今の大降りをケロリと忘れたように小やみになっていましたが、赤耀館の真上には、墨を流したような黒雲が渦を捲きつつ垂れ下っていました。
勝見が気でも変になったような大声を挙げ、競技会のある大広間に飛びこんで来たのは、それからものの五分と経たないうちでした。
「主人が実験室に卒倒して居ります。どなたか、手をお貸し下さい。早く、早く……」
こう叫ぶと彼は身体を飜《ひるがえ》して駆け出しました。一同は呀ッと声を合せて叫びましたが、勝見の後を追って戸外の闇の中に犇《ひしめ》きながら、実験室のある方向へ走って行きました。雨はもうすっかり上っていたようです。
実験室の建物は、四角な身体を、黒々と闇のなかに浮ばせていました。正面に長方形の扉が開きっぱなしとなり、黄色い室内の照明が、戸外にまで流れていました。それが黒猫の瞳《ひとみ》ででもあるかのように気味のわるい明るさを持っていました。
一同は雪崩《なだれ》を打って実験室の中へ飛び込んだものですから、またたく間に室の中は泥足で蹂躙《じゅうりん》せられてしまいました。兄は、自記式《オートグラフィック》の気温計や、気圧計や、湿度計がかけてある壁の際に、うつぶせになって仆れていました。勝見と賀茂子爵とが兄の身体を卓子《テーブル》の上に移しました。そのとき卓子の上に、コップが一つ置かれていましたが、その底には僅かにレモナーデの液体が残っていたそうです。嫂は物も得言《えい》わず、ただうちふるえて兄の身体をゆすぶっていましたが、百合子が「姉さん、しっかりして頂戴」と後から囁《ささや》きますと、そのままとうとう百合子の腕の中に気を失ってしまいました。それで騒ぎは益々大きくなって行ったのです。一座の中には、医学博士やドクトルも居たので、両人には割合に手早く手当が加えられました。嫂は、まもなく蘇生《そせい》して、元の身体に回復しましたが、兄の方は遂に息を吹きかえしませんでした。その死因は、たしかなこととて判らないのですが、心臓麻痺らしいという見立てでありました。死因に疑いを挟んだ医学者も居たのでしょうが、その場のことですから口を緘《かん》して語らなかったのでしょう。こんな風にして、兄はとうとう赤耀館の悪魔の手に懸ってしまったのです。
麻雀競技会は勿論中止となり、参会者はこの不吉な会場からそれぞれ引上げようとした時、ドヤドヤと一隊の警官や刑事が大広間に入って来たので、一座は俄かに緊張の空気に圧《お》されて息ぐるしくなりました。この前、笛吹川画伯のとき検屍にやって来た尾形警部の姿が、警官隊の先頭に見えましたが、警部は興奮をやっと怺《こら》えているらしく病人のような顔に見えました。
「皆さん、まことにお気の毒に存じますが、一通り本件の取調べがすみますまで、この室から一歩も外へお出にならぬように……。これは警視庁からの命令でございます」
警部が開口一番、いきなり厳然たる申渡しをいたしましたので、一座は不安とも不快ともつかぬ気分に蔽われてしまいました。中には、赤耀館にフラフラ迷い込んで来たことを一代の失敗のように愚痴《ぐち》るひともありましたし、又、医師は心臓麻痺で頓死したというからには普通の病死であるものを、なぜ犯罪事件らしい取扱いをし、我々の迷惑をも顧みず、この夜更けに留め置くのかと、不平を並べる人もありました。兄を診察した医学者たちは、警部の後に随《したが》って、大広間を出て行きました。実験室へ一行は入ってゆきましたが、泥田のように多勢の人々によって踏み荒された室内の有様を一目見た警部は、とうとう怺えかねたものと見えて「しようがないなア、チェッ」と舌打ちをしたことです。
実験室で早速訊問が開始せられました。嫂、百合子、勝見やボーイ、女中をはじめ、看護をした医学者たちを通して知ることの出来た事実は、極く僅かなものでした。それを綜合してみると、兄は九時の無線時報信号を聴取するために、その時刻にこの室を訪れたこと、しかし連《つ》れがあったか、又は無かったかは不明なること、レモナーデのコップは兄が持って来たのか又は他の人が持って来たのか不明であるが、兎も角も卓子の上にのっていたこと、但しボーイは兄にレモナーデを手渡しした覚えのないこと。兄の死は急死であり、時刻は九時から九時十五分までの間であること、凡《およ》そこればかりの貧弱な材料でした。
医学者に対しては、病死と変死との孰《いず》れであるかという質問が発せられましたが、その答えはどれも不決定的なものであり、解剖を待つより外に死因を決定する手段はあるまいとのことでした。警部は早速屍体解剖の手続をとるよう部下の警官に命じました。
兄の死の前後の様
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