ような紙函《かみばこ》を載せて、乙吉の方にさしだした。
「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物《こうぶつ》の標本《ひょうほん》を入れるのに使う平べったい円形《えんけい》のボール函《ばこ》で、上が硝子《ガラス》になっていた。硝子の窓から内部《なか》を覗《のぞ》いてみると、底にはふくよかな脱脂綿《だっしめん》の褥《しとね》があって、その上に茶っぽい硝子|屑《くず》のようなものが散らばっている。
「判らんかネ」と警官は再び尋《たず》ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」
「どこに御座いましたのですか」
「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅《すみ》からゴミと一緒に拾い出したのだ」
「さあ、どうも見当《けんとう》がつきませんが……」
 どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上|追究《ついきゅう》したり、また今とりつつある上官《じょうかん》の処置に異議《いぎ》を挿《はさ》もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。
 隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到《さっとう》して来た。
「とうとう、新宿の轢死美人《れきしびじん》の身許《みもと》が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」
「自殺の原因は何です」
「全然|素人《しろうと》じゃないという噂《うわ》さもありましたが……」
 当直《とうちょく》は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿《は》げ頭を掻《か》いた。
「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」
 本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸《おおあくび》した。記者連《きしゃれん》もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤《あやま》りだったような気がして、一緒に欠伸を催《もよお》したほどだった。
 しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互《たがい》に血相《けっそう》をかえて「怪事件発生」を喚《わめ》きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。


     2


 それから二十四時間ほど経った。
 同じ警察署の夜更《よふ》けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑《かん》としていた。
 そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。
 ギーッ、ギーッという音に、不図《ふと》気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚《ぶあつ》な犯罪文献《はんざいぶんけん》らしいものから、顔をあげて入口を見た。
「だッ誰かッ」
 夜勤《やきん》の署員たちは、熊岡の声に、一斉《いっせい》に入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って巌《いわ》のように動かない。
「うぬッ」
 熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして扉《ドア》に手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには外面《とのも》の黒手《くろて》のような暗闇《やみ》ばかりが眼に映《うつ》った。
「オヤー」
 熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に躍《おど》り出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒……。空間も時間も化石《かせき》した。
 風船がパンクするように戸口がサッと開いた。
「さア、こっちへ這入《はい》れ!」
 熊岡警官の怒号《どごう》と諸共《もろとも》、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」
 昨夜《ゆうべ》とは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、駭《おどろ》いたのは熊岡警官だった。
「なあーンだ。君は妹の轢死体《れきしたい》を引取って行った男じゃないか」
「うん、隅田乙吉だな」見識《みし》り越しの刑事も呻った。「どうしたのか」
 たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の悠然《ゆうぜん》たる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている様子《ようす》だった。
「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の戸口《とぐち》を覗うなんて、何事かッ」
「いや申します、申上げます」熊岡警官の追窮《ついきゅう》に隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」
「うむ」
「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴《ちょうだい》いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死《し》に様《よう》でございますから、お通夜《つうや》も身内だけとし、今日の夕刻《ゆうこく》、先祖《せんぞ》代々|伝《つた》わって居ります永正寺《えいしょうじ》の墓地《ぼち》へ持って参り葬《ほうむ》ったのでございます」
「それから…
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