!」
 運転手は弾《はじ》かれたように、座席から立ちあがった。彼の面《おもて》はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。
 ゴトリ。……ゴトリ。……
 車輪とレールとの間に、確かな手応《てごたえ》があった。あのたまらなくハッキリした轢音《れきおん》が……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸《めが》けて飛びこんだのだ!
 それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。
 現場の落花狼藉《らっかろうぜき》は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。
「……というような着衣《ちゃくい》の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円|札《さつ》で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢《とし》ですか。それがどうも明瞭《めいりょう》でありませぬ。何《なん》しろ、顔面《かお》を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄《がら》や、四肢《しし》の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」
 係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥《の》みこんだ。
 やがて鶯色のコートを着た轢死婦人《れきしふじん》の屍体《したい》は、その最期《さいご》を遂げた砂利場《じゃりば》から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書《すじがき》だったが、どうしたものか何時《いつ》まで経《た》っても引取人《ひきとりにん》が現れない。告知板《こくちばん》に掲示《けいじ》をしてある外《ほか》、午後一時のラジオで「行路病者《こうろびょうしゃ》」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更《さら》に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議|千万《せんばん》だと署員が噂《うわ》さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後《れきしご》、丁度《ちょうど》十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。
 それは隅田乙吉《すみだおときち》と名乗る東京市中野区の某《ぼう》料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子《テーブル》の上に拡《ひろ》げられた数々の遺留品《いりゅうひん》を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末《すえ》の妹だったのだ。
「このコンパクトですがネ、梅子《うめこ》――これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋《ふた》をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良《ふりょう》の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達|同胞《きょうだい》もいけなかったんです。何《なに》しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末《すえ》ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣《こづか》いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩《かさ》でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石《さすが》の同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭《しりぬぐ》いに耐《た》えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又《また》金の無心《むしん》です。これが最後だというので百円|呉《く》れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨《むごた》らしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」
 顔面《かお》は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々|肯定《こうてい》したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝《しゃ》し、屍体は持参《じさん》の棺桶《かんおけ》に収《おさ》め所持品は風呂敷《ふろしき》に包んで帰りかけた。
「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係《しほうがかり》の熊岡《くまおか》という警官が席から立ち上って来た。
「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又|卓子《テーブル》の上に置いて振りかえった。
「君はこんなものを知らんか」
 警官は掌《て》の上に、ヨーヨーを横に寝かした
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