ない……」
 その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々《ひょうひょう》とやってくる潮らしき人物の袂《たもと》を抑《おさ》えていた。
「潮君」
「呀《あ》ッ」
 青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天《いだてん》を追駈《おいか》けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂《つい》に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中《ふところ》から、コロコロと平べったい丸缶《まるかん》のようなものが転げ出て、溝《みぞ》の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
 と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損《ぞん》をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
 ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死《れきし》婦人のハンドバッグに、フィルムの焼《や》け屑《くず》があったではないか。
 帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁《に》げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘《つぐ》んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力《きょくりょく》否定した。
 あとは本庁で調べることとし、意気昂然《いきこうぜん》たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴《ともな》って、警視庁へ引上げた。
 今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画|検閲室《けんえつしつ》で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事《ばんじ》よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵《くろこうちししゃく》を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態《じゅうたい》で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤《あご》を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解《ごりょうかい》を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直《す》ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内|射的場《しゃてきば》がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万《のんきせんばん》にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃《ピストル》を並べてある高い台があって、遥《はる》か向うの壁には、大きな掛図《かけず》のような的《まと》がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠《みずたま》を寄せたように、茶椀《ちゃわん》ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円《まる》が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃《ピストル》をとって、覘《ねら》いを定《さだ》めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円《あかまる》に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦《すす》めた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあった
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