者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗《うらら》かな陽春の空だった。
 彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹《は》れぼったくなった顔を見ると、斯《こ》う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚《わめ》いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報《しら》せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑《けいべつ》したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾《はず》ませながら問いかえした。
「浅草の石浜《いしはま》というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝《おかみももえ》という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山《みやま》理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
 課長は余程《よほど》口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪《なみだ》をポロポロ滾《こぼ》した。
「そうですか」帆村も泪を誘《さそ》われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視《み》えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其《そ》の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎《と》に角《かく》、見に行って来ます。あれは日本堤署《にほんつつみしょ》の管内《かんない》ですね」
 課長は黙って肯《うなず》いた。
 警察へ行ってみると、現場《げんじょう》はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰《もら》うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
 そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程《みちのり》ではなかった。彼は捷径《ちかみち》をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町《たなかまち》の方へ足を向けた。震災前《しんさいぜん》には、この辺は帆村の縄張《なわば》りだったが、今ではすっかり町並《まちなみ》が一新《いっしん》してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行《ゆ》く手《て》を見えなくした。彼は忌々《いまいま》しそうに舌打ちをして、大田中《おおたなか》アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
 見ると、アパートの高い非常梯子《ひじょうばしご》に、近所の人らしいのが十四五人も載《の》って、何ごとか上と下とで喚《わめ》きあっているのだ。
「どうしたんです」
 帆村は道傍《みちばた》に立っている人のよさそうな内儀《おかみ》さんに訊《たず》ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉《まゆ》を顰《しか》めると、赤い裏のついた前垂《まえだれ》を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦《ばか》に臭《くさ》い臭《くさ》いと云ってましたが、その死骸《しがい》のせいなんですよ。まあ、いやだ」
 内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾《つば》をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経《た》った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁《みのが》せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮《うしお》さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若《も》しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻《か》き合《あ》わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
 帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭《おどろ》いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違い
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