田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の変態性《へんたいせい》がこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な刺戟《しげき》を与えたというのでした。――私の妻《あれ》は、最後にこんなことを訊《き》いたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった筈《はず》です。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の駭《おどろ》きは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は莫迦《ばか》なことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」
 係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が円《まる》い小箱《こばこ》をもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の硝子屑《ガラスくず》のようなものであった。勿論《もちろん》二人には思いもよらぬ品物だった。
「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが燃焼《ねんしょう》を始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」
 それは二人にとって更《さら》に見当《けんとう》のつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を辞去《じきょ》した、というのであった。
「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が尋《たず》ねた。
「黒河内尚網《くろこうちひさあみ》という是《こ》れでも子爵《ししゃく》なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」
「黒河内京子――君の伯母さんか」
「先生、伯母をご存知ですの」
「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」
 そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の袖《そで》をとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。
 ダリアの眼は悪戯者《いたずらもの》らしく爛々《らんらん》と輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。


     4


「赤外線男《せきがいせんおとこ》というものが棲《す》んでいる!」
 途方《とほう》もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外《ほか》ならぬ深山《みやま》理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。
 大胆《だいたん》といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭《おどろ》いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早《いちはや》く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識《し》らざるとを問わず、どこからどこの隅々《すみずみ》まで、一大センセイションが颶風《ぐふう》の如く捲《ま》きあがった。
「赤外線男というものが棲《す》んでいるそうだ」
「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」
「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」
 などと、人の噂は千里を走った。
 なにが「赤外線男」だ?
 深山理学士の言うところによれば斯《こ》うだ。
「予《よ》はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此《こ》の程《ほど》完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子《きゅうしゅうガラス》で除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾《てっとうてつび》、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。
「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗《のぞ》くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗《ほのくら》くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼《はくちゅう》と変らない明るさであった。それは太陽の残光《ざんこう》が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人《ごじん》が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白《まっしろ》にうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力《みりょく》であるか。
「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒《きょうとう》せしめるものがあろうとは、今日の今日
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