まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍《は》いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗《のぞ》いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼《か》の生き物は直立《ちょくりつ》した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥《こ》えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡《ちょっと》悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺《なが》められる人の姿でありながら、一度元の肉眼《にくがん》にかえると、薩張《さっぱ》り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男――というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。
 しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走《いっそう》を始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡《うち》に、視界の外に出てしまった。駭《おどろ》いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早《もはや》駄目だった。しかし兎《と》も角《かく》も、予は初めて『赤外線男』の棲《す》んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲《す》んでいるとは、何という駭《おどろ》くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」
 深山《みやま》理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。
「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近《みぢ》かに現われるかと思って戦々恟々《せんせんきょうきょう》としていた。
 そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業《しわざ》と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。
 郊外の文化住宅の卓子《テーブル》の上に、温く湯気《ゆげ》の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
 ギンザ、ダンスホールの夜更《よふ》け。ジャズに囃《はや》されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際《かべぎわ》の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々《やや》年増《としま》のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭《おどろ》いてダンスを止《や》めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆《たお》れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋《たず》ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠《みは》っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中《むがむちゅう》だったという。――何が幸《さいわい》になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝《が》ちだったのが急に流行《はやり》っ児《こ》になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
 こうなると何事も、暗闇《くらやみ》だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時《いつ》赤外線男にアリアリと覗《のぞ》かれてしまうか知れなかったのである。
 これに類する報告は、日一日と殖《ふ》えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧《いたずらこぞう》又は軽い痴漢《ちかん》みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼《ぎしんあんき》から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚《さっかく》であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待|外《はず》れを口にする人も少くはなかった。
 だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如《とつじょ》として赤外線男の魔手《ましゅ》は伸び、帝都全市民の面《おもて》は紙のように色を喪《うしな》って、「赤外線男」恐怖症《きょうふしょう》に罹《かか》らなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山
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