わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう気力《きりょく》が無くなったと見え、ペンチを機械台の上に抛《ほう》り出してしまった。
(どうして、白丘は出てこないんだろう?)
いろいろなことが、追懐《ついかい》された。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに頼《たよ》りすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。
(莫迦《ばか》なッ。あんな小娘に……)
彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。
「ああ、桃枝《ももえ》から手紙が来ていたっけ」
今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「岡見桃助《おかみとうすけ》」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸|卓子《テーブル》の上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変|寂《さび》しがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに耐《た》えないような文句が縷々《るる》として続いていた。桃枝は学士の内妻《ないさい》に等しい情人《じょうじん》だった。彼は手紙を畳《たた》むと、ポケットへねじこんだ。
(今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)
深山《みやま》理学士が実験衣を脱いで、卓子《テーブル》の上へポーンと抛《ほう》り出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた跫音《あしおと》がして、白丘ダリアがやって来た。
「先生、先生」
扉《ドア》をあけてやると、ダリアは兎《うさぎ》のように飛びこんできた。
「先生|済《す》みませんでした。急用が出来たものですから……」
「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な面持《おももち》で聞いた。
「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……」
「なに、警視庁へ」
「あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母《おば》さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分《ずいぶん》この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……」
ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を喋《しゃべ》り出した。
簡単に云うと、失踪《しっそう》した伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。
例の身許《みもと》の知れぬ轢死《れきし》婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって外《ほか》に年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から重《かさ》ねての呼び出しが来たので今朝、姪《めい》のダリアを介添《かいぞ》えに桜田門《さくらだもん》へ行ったというのだ。
本庁では、伯父に対して、どんな些細《ささい》なことでもよいから、夫人について腑《ふ》に落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。
伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。
「そういえば思い出しましたが、妻《あれ》の居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。江戸川乱歩《えどがわらんぽ》さんの有名な小説に『陰獣《いんじゅう》』というのがありますが、あの内容《なか》に紳商《しんしょう》小山田夫人《おやまだふじん》静子《しずこ》が、平田《ひらた》一郎という男から脅迫状《きょうはくじょう》を毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に詳細《しょうさい》に書き綴《つづ》ってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない内緒《ないしょ》ごとでした。それにも係《かかわ》らず、平田一郎という陰険《いんけん》な男は、一体どこから見ているのか、実に詳《くわ》しく、実に正確に、夫婦間の秘事《ひじ》を手紙の上に暴露《ばくろ》してある。――この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平
前へ
次へ
全24ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング