が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
 ギンザ、ダンスホールの夜更《よふ》け。ジャズに囃《はや》されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際《かべぎわ》の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々《やや》年増《としま》のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭《おどろ》いてダンスを止《や》めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆《たお》れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋《たず》ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠《みは》っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中《むがむちゅう》だったという。――何が幸《さいわい》になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝《が》ちだったのが急に流行《はやり》っ児《こ》になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
 こうなると何事も、暗闇《くらやみ》だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時《いつ》赤外線男にアリアリと覗《のぞ》かれてしまうか知れなかったのである。
 これに類する報告は、日一日と殖《ふ》えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧《いたずらこぞう》又は軽い痴漢《ちかん》みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼《ぎしんあんき》から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚《さっかく》であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待|外《はず》れを口にする人も少くはなかった。
 だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如《とつじょ》として赤外線男の魔手《ましゅ》は伸び、帝都全市民の面《おもて》は紙のように色を喪《うしな》って、「赤外線男」恐怖症《きょうふしょう》に罹《かか》らなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山
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