フェだった。広いと思ったのは、表だけで、莫迦《ばか》に奥行《おくゆき》のない家だった。帆村は先登《せんとう》に立って、ノコノコ三階まで上った。各階に客は四五人ずついたが、私達の探している相手らしいものの姿は、どこにも見当らなかった。
「なに召上って?」
 入口にいた女給が、三階までついてきた。
「ビールだ。で、君の名前は?」
「マリ子って、いうわ、どうぞよろしく」
 イートン・クロップのお河童頭《かっぱあたま》がよく似合う子だった。前髪が、切長《きれなが》の涼《すず》しい眼とスレスレのところまで垂《た》れていた。なによりも可愛いのは、その、発育しきらないような頤《あご》だった。
「おいマリちゃん」すかさず帆村が、彼女の名を呼んだ。「ここ、特別室《スペシャル・ルーム》があるんだろう。地下室か、なんかに、そこへ案内しろよ」
「地下室なんて、ないわよ。この三階がスペシャルなんじゃないの、ホホッ」
 と、やりかえして、マリ子は下へ降りていった。
 煙草の箱を探そうと思ってポケットへつきこんだ指先に、カチリと硬い物が当ったので、私は思いだした。
「おい、戦利品《せんりひん》だ」私は、帆村の脇腹《わきっぱら》をつついて置いてから例の男の上衣《うわぎ》から失敬したものを、卓子《テーブル》の下にソッと取り出した。
「なんだか、薬壜《くすりびん》のようだネ」万事《ばんじ》を了解《りょうかい》したらしい様子の帆村が、低声《こごえ》で云った。
「レッテルが貼ってある。ボラギノール」と私は辛《かろ》うじて、薬の名を読んだ。
「ボラギノールって、痔《じ》の薬じゃないか」
 帆村は、謎々《なぞなぞ》の新題《しんだい》にぶつかったような顔付をして、一寸《ちょっと》首を曲げた。
 そこへマリ子がバタバタ階段をあがってくる気配がしたので、私は帆村に、あとを聞いてみる余裕もなく、その薬壜をまた元のポケットに収《しま》いこんだ。


     2


 小石川《こいしかわ》の音羽《おとわ》に近く、鼠坂《ねずみざか》という有名な坂があった。その坂は、音羽の方から、小日向台町《こひなただいまち》の方へ向って、登り坂となっているのであるが、道幅が二メートルほどの至って狭い坂だった。登り口のところではそうでもないが、三丁ほど登ったところで、誰もがこの坂にかかったことを後悔するであろう。それというのが、この名うての坂は、そのあたりから急に傾斜がひどくなって、足が自然に動かなくなる。そのうえに、路がだんだん泥濘《ぬか》ってきて、一歩力を入れてのぼると、二歩ズルズルと滑りおちるという風だった。それを傍《そば》の棒杭《ぼうぐい》に掴《つかま》ってやっと身体を支え、ハアハア息を切るのだった。気がついてあたりを見廻わすと、こわそも如何に、高野山《こうやさん》に紛《まぎ》れこんだのではないかと駭《おどろ》くほど、杉や欅《けやき》の老樹《ろうじゅ》が太い幹を重ねあって亭々《ていてい》と聳《そび》え、首をあげて天のある方角を仰いでも僅か一メートル四方の空も見えないのだった。そして急に冷《ひ》え冷《び》えとした山気《さんき》のようなものが、ゾッと脊筋《せすじ》に感じる。そのとき人は、その急坂《きゅうはん》に鼠の姿を見るだろう。その鼠は、あの敏捷《びんしょう》さをもってしても、このぬらぬらした急坂を駈けのぼることができないで、徒《いたずら》にあえいでいる――これが鼠坂《ねずみざか》という名のついたいわれであった。
 この坂の、のぼることも降りることも躊躇《ちゅうちょ》される、その中途に、さらに細い道が横に切ってあって、その奥に朽《く》ちかかった門柱が見える家があった。その家の門は、月のうち、二三日を除いて、滅多《めった》に開かれることがなかった。門の鈴がリリリンと冴《さ》えた音をさせる日は、大抵《たいてい》月の上旬にきまっていた。もし気をつけて垣の間から窺《うかが》っているならば、訪客は夜分《やぶん》にかぎり、そして年齢のころは皆、四十から下の比較的わかい男女であって、いずれも相当の身姿《みなり》をしていることが判ったであろう。
 帆村探偵も、その夜の客に交《まじ》っていたのだった。
 彼は階下の待合室で、順番を待っていた。一座には、袴《はかま》をはいて頤《あご》の先に髯《ひげ》を生やしている男が、しきりに心霊《しんれい》の物理学について論じていた。その隣りには、半年前に夫を喪《うしな》ったというまだ艶々《つやつや》しい未亡人だの、その姪《めい》にあたるという若い女だのが居流《いなが》れていた。帆村はひとり離れて下座《しもざ》にいた。手を伸ばすと、寒そうに光っている廊下が触《ふ》れる。その廊下を出ると幅の狭い段梯子《だんばしご》が、二階へつづいていた。
「ボワーン」
 と小さい銅鑼《どら》をうったような音響が、その段梯子の上から流れてきた。
「貴方の番ですよ」
 と、頤髯《あごひげ》のある男がお喋《しゃべ》りを中止して、帆村の方に合図《あいず》をした。
 帆村は恭々《うやうや》しく頭を下げると、しびれのする脚を伸ばして立ちあがった。
 階下の明るさにくらべて、段梯子のうえは、暗闇にちかかった。彼は手さぐりに、のぼって行った。最後の段をのぼりきると、目の前には異様な光景が浮びあがったのだった。
 十畳敷ほどの間が二つ、障子《しょうじ》があいていた。薄ぼんやりと明りがついている。小さいネオン燈《とう》が、シェードのうちに、桃色《ももいろ》の微《かす》かな光線をだしていた。床《とこ》の間《ま》を背に、こっちを向いて坐っているのは、婦人だった。暗くてよくは判らないが若くはない。その隣には、懐中電燈の載《の》った小机《こづくえ》を前にして頭の禿げあがった老人がいた。もう二人、背広姿の若い男がいて、これは婦人の前に畏《かしこま》っていた。
「では大竹さん」と老人は、隣の夫人に呼びかけた。
「序《ついで》に、も一つやってあげて下さい」
 大竹さんと呼ばれた婦人は、無言で肯《うなず》いた。そのとき横顔がチラリと見えたが、四十を二つ三つ越したかと思われるブクブクと肥《こ》えた中年女であることがわかった。
 あとそれにつづいて二人の背広男が、丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「後《あと》のかた、まことに済みませんが、もう一つやりますから、少々お待ち下さい」
 老人の静かな声に、帆村もまた無言で応諾《おうだく》した。
 老人は席を立って、婦人の前にピタリと坐った。右手を婦人の額《ひたい》にあげていたが、やがてソッと引くと今度は掌《てのひら》を組み、胸のまえで上下に強く振った。
「昭和四年二月十八日|歿《ぼっ》す、俗名《ぞくみょう》宗清民《そうせいみん》の霊……」
 老人の皺枯《しわが》れた声が終るか終らないうちに、
「ううッ、ああア」
 と、大竹女史が呻声《うめきごえ》をあげた。
「それ出ました。声をおかけなさい」
 と老人は手をあげて二人に合図をすると、元の小机《こづくえ》の前にかえっていった。
「宗《そう》先生ですか」
 声をかけたのは、三十四五の男の方だった。
「わしは宗じゃ。今忙しいから後《あと》にこい」大竹女史が目を瞑《と》じたまま、男の声で答えた。
「先生、こっちは曽我貞一《そがていいち》です。神田仁太郎《かんだにたろう》を連れてあがりました」
「曽我貞一に、神田仁太郎? そんな名は知らぬぞ」
 男はそのとき何やら早口に云ったのだが、なにか外国語のようでもあり、なんの意味か判らなかった。しかし大竹女史は、喜びの表情をあらわして、答えた。
「わかった。なるほど曽我と神田か」と云ったが、そのあとで急に顔を顰《しか》めて、「わしは胸が苦しくてならん」と云った。
「それは先生」曽我貞一と名乗る男は一寸《ちょっと》云い淀《よど》んだが、「先生は御臨終《ごりんじゅう》の苦しみを続けていらっしゃるのです。目をお醒《さ》ましなさい」
「なに臨終だァ? 莫迦《ばか》をいいなさい生きているものを掴《つかま》えて、臨終とは何ごとかッ」大竹女史は、男のような険《けわ》しい顔付をして叫んだ。
「先生は、もう疾《と》くの昔に死の世界にゆかれました。もう三年も前に亡《な》くなられたのです」
「わしが死んだ? 死んだものが、お前の顔を見たり、こうやってベラベラ喋《しゃべ》られるかい。ハッハッハッ」女史は、目を瞑《と》じたまま後へ反《そ》りかえって笑った。隣の老人が駭《おどろ》いて、女史の身体を後から支《ささ》えたほどだった。
「いえ先生は既に亡くなられました。今日はそれをお教えして、死後の御立命《ごりつめい》をおすすめに来たのです。先生には死んだような気がなさいませんか」
「そういわれると、どうも、腑《ふ》におちないこともあるんだが……」女史は、首をすこし曲げて、何事かを考えている風だった。
「宗先生、試みに、御自分の体を触ってごらんなさい」
 女史は、自分の胸のあたりに両腕を組むようにしてそこらを撫《な》でるのだった。
「わかりますか、先生、胸のところに、乳房《ちぶさ》がありましょう」
「ほほウ、これはおかしい」女史は自分の乳房を着物の上からギュッと握りしめて不審気《いぶかしげ》であった。
「先生は、幅の広い帯をしめて居られる。太腰《ふとごし》のまわり、柔らかい膝、そして先生の頭には、豊かな黒髪がある!」
 曽我貞一の言葉につれて、女史は手を動かして、或《あるい》は腰のまわりに恐ろしそうに触れ、膝を押していたが、最後に両手をあげて、房々《ふさふさ》とした束髪《そくはつ》を抑《おさ》えたときに、
「キャッ」
 と一声《いっせい》喚《わめ》いた。女史は極度に興奮してその場に立ちあがろうとするのを、隣席の老人は笑いながら後から抱きついて止めた。
「呀《あ》ッ、これは女の身体だッ。女の身体だッ。おお、わしの身体を、何処へやった。わしの身体をかえせ!」
 女史は、裾《すそ》の乱《みだ》れるのも気がつかず、われとわが身を、かき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》った。
「先生、合点《がてん》がゆかれましたか」曽我貞一が憎いほど落付いた態度で云った。「先生の身体は、もう亡くなっているのです。それは、先生の霊を生前《せいぜん》の世《よ》へお迎えするために使っている霊媒《メディウム》の御婦人の身体なのです。お判りですか」
「なに、霊媒《メディウム》? これはわしの魂が乗り移っている霊媒の婦人の肉体だというのか。ああ……」女史は頭をかかえて、其の場に俯《うつむ》いた。やがてその下から泣き声が洩《も》れてきた。獣《けだもの》の叫びごえに似た怪しい響をもった泣き声だった。
「ああ、いつの間にか、わしは死んでいた!」
 女史は、慨《なげ》きのあまりか、容易に身が起せないようであった。
「どうです。今日は、その辺で止《や》めておいては……」隣席の老人が、二人に注意した。
 曽我貞一は、連れの神田の興奮に青ざめたような顔をチラリと見たうえで、老人に、止めることを頼んだ。
 老人は、再び大竹女史の前に膝をつくと、何やら呪文《じゅもん》のようなものを唱え、女史の額のへんを二三度、撫でるようにした。
 女史は、元の女らしさに立帰って、静かに上体を起した。そしてケロリとした顔で、一座を眺めると、やや気まり悪そうに、はだけた前をかきあわせたのだった。
 二人の背広男は、このとき丁寧《ていねい》なお辞儀をすると、席を立った。場慣《ばな》れているらしく、始終《しじゅう》ベラベラ喋《しゃべ》った曽我貞一という男、それに反して一語も発しないで、唯《ただ》興奮に青ざめていたような神田仁太郎と呼ばれた若い方の男――帆村はそれをぼんやりと見送っているような顔付をしていたが、その実、彼の全身の神経は、網膜《もうまく》の裏から、機関銃を離れた銃丸《たま》のように、両人目懸けて落下していたのだった。
     *   *   *
「そのときの若い方のが、昨夜、銀座裏で逢った彼《あ》の男なのさ」帆村は、抽出《ひきだし》のなかから新しいホープの紙函《かみばこ》を
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