西湖の屍人
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)酒場《バー》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)短刀|逆手《さかで》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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銀座裏の酒場《バー》、サロン船《ふね》を出たときには、二人とも、ひどく酩酊《めいてい》していた。
私は私で、黄色い疎《まば》らな街燈に照らしだされた馴染《なじみ》の裏街が、まるで水の中に漬《つか》っているような気がしたし、帆村《ほむら》のやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿《めいえん》シドニーのように横ちょに被り、洋杖《ステッキ》がタンゴを踊りながら彼の長い二本の脛《すね》をひきずってゆくといった恰好《かっこう》だった。
私はそれでも、ロマンチストだから構《かま》わないようなものの、かれ帆村なるもの[#「もの」に傍点]は、商売が私立探偵ではないか。帽子の天頂《てっぺん》から靴の裏底まで、およそリアリズムであるべきだった。しかるに今夜、彼はそれ等の特徴を見事ふりおとして、身体中が隙《すき》だらけであるかのように見えた。もし彼に怨恨《うらみ》のある前科者《ぜんかもの》どもが、短刀|逆手《さかで》に現われたとしたらどうするだろうと、私は気になって仕方がなかった。
すると、背後から大声でもって、警告してやりたい程、矢鱈無性《やたらむしょう》に不安に襲われた。この嘔気《はきけ》のようにつきあげてくる不安は、あながち酩酊《めいてい》のせいばかりでは無いことはよく判っていた。近代の都市生活者の九十九パーセントまでが知らず識らずの間に罹《かか》っているといわれる強迫観念症《きょうはくかんねんしょう》の仕業《しわざ》にちがいないのだ。
帆村が蹣跚《よろ》めくのを追って、私が右にヨタヨタと寄ると、帆村は意地わるくそれと逆の左の方にヨロヨロと傾《かたむ》いてゆくのだった。銀座裏は時刻だから、いたずらに広々としたアスファルトの路面がのび、両側の家はヒッソリと寝しずまり、さまざまの形をした外燈が、半分夢を見ながら足許《あしもと》を照らしていた。
酔っ払いにとって、四ツ角《かど》は至極《しごく》懐《なつか》しいものである。三間先のコンクリート壁体《へきたい》を舐《な》めるようにして歩いていた帆村は、四ツ角を見付けると嬉しそうに両手をあげ、まるでゴールのテープを截《き》るような恰好をして、蹣跚《よろ》けていった。そのとき私は後からそれを眺めていて、急にハッとしたのだった。
――その四ツ角へ、別の横丁から、おかしな奴がノコノコやってくる!
その姿は、本当には薩張《さっぱ》り見えないのだ。それにも拘《かかわ》らず、見えない横丁に歩いている人間の姿が見えたような気がした。いや、矢張《やは》りハッキリと見えたのだ。それは不思議なようで、別に不思議はないことだ。私達のように永年《ながねん》都会に棲《す》んで、極度に神経を敏感以上、病的に削《けず》られている者は、別に特殊な修練《しゅうれん》を経《へ》ないでも、いつの間にか、ちょっとした透視《とうし》ぐらいは出来るようになっているのだった。これはいつも、そういう話の出たときに、私の言う話であるが、試《こころ》みに諸君は身体の調子のよいときに、ポケットの懐中時計をソッと掌《て》のうちに握って、
(はて、いま何時何分かなァ――)
と考えてみたまえ、すると目の前に、白い時計の文字盤が朦朧《もうろう》とあらわれ、短い針と長い針の傾きがアリアリと判るのだ。そうして置いて、掌《てのひら》を開き、本当の文字盤を見る。果然《かぜん》! 一分と違《たが》わず二つは一致している――これでも諸君は信じないというか?
四ツ角では、帆村ともう一人の黒い影とが、縺《もつ》れあっているのだった。
私は、応援してやりたい気持一杯で、ペイブメントを蹴って駈けだしたのであるが、駈けるというよりは、泳ぐというに近かった。
「ぼぼぼ僕は、いいい生きているでしょうか」
と帆村の前に立つ怪《あや》しの男が、熱心に尋《たず》ねている。
帆村は、その男に胸倉《むなぐら》をとられたまま、
「ウウ、ううウ」
と低く呻《うな》っているばかりだった。
「ちょいと、僕の身体を触ってみてください。この辺を触ってみて下さい」
泣かんばかりに彼《か》の男は喚《わめ》くのであった。そして帆村を離すと、ベリベリと音をさせて、われとわがワイシャツを裂《さ》きその間から屍《しかばね》のように青白い胸部を露出させた。私は、初めてその男の姿をマジマジと観察したのだったが、思ったより
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