は遙かに、若い男だった。年齢《とし》のころは二十四五でもあろうか。だが非常に憔悴《しょうすい》していた。皮膚には一滴の血《ち》の気《け》もなく下瞼《したまぶた》がブクリと膨《ふく》れて垂《た》れ下《さが》り、大きな眼は乾魚《ひもの》のように光を失っていた。
「きみは、おおお面白いことを云う」帆村が口のあたりについている涎《よだれ》らしいものを手の甲で拭《ぬぐ》い乍《なが》ら云うのであった。
「生きているかァ? ウンここにあるのは、きみィの胸ではないか、だッ」
 帆村は腰をかがめ、指先を自分の眼の前にチラチラふるわせて云った。
「では、僕の手を握ってください」
「よオし、握った」
 帆村はよろけながら、怪青年の手を執《と》った。
「その手は、僕の身体に繋《つなが》っているでしょうか」
「ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ」
「僕が喋《しゃべ》るときには、この唇が動いているでしょうか」
「なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひと[#「ひと」に傍点]を舐《な》めやがって」
 帆村は、気合《きあい》をかけると、
「ええいッ」
 と青年の頭をガーンと、どやしつけた。
 青年は痛そうな顔一つしない。
 が、彼はたちまち恐怖の色を浮べて喚《わめ》きだした。
「おお憎《にく》むべき幻影《げんえい》よ。わが前より消えてなくなれ。消えてなくなれ!」
 彼は両眼《りょうがん》をカッと見開き、この一見意味のない台辞《せりふ》を嘔《は》きちらしていたが軈《やが》てブルブルと身震《みぶる》いをすると、パッと身を飜《ひるがえ》して駈け出した。
「それッ、逃がすな!」
 と叫んだ帆村の声は、いつの間にか普段《ふだん》の、あの胸のすくような名調子に変っていた。
「よオし、掴《つかま》えてやる!」
 と私は呶鳴《どな》った。
(これは冗談ごとではなくて、なにか事件かもしれない)私の酔いは、やっと醒《さ》めかかった。
 私は兵士のように身を挺《てい》して、怪青年の背後に追いすがった。右の肘《ひじ》をウンと伸すと、運よく彼の肩口に手が触れた。勇躍《ゆうやく》。
「ヤッ!」
 と飛びかかった。
「無念!」
 ひっぱずされて(酒精《アルコール》の祟《たた》りもあって)身体が宙にクルリと一回転した揚句《あげく》、イヤというほど腰骨《こしぼね》をうちつけた。じっと地面にのびているより外《ほか》に仕方がなかった。帆村が勇敢にも私の身体を飛び越えて、追駈けていったのがぼんやりわかった。だが、こっちは全身がきかないのだ。どこに自分の腕があり、どこに自分の足があるのだか、皆目《かいもく》見当《けんとう》がつかなかった。気がついたのは――此際《このさい》呑気《のんき》な話であるが――なにかしら、馥郁《ふくいく》たる匂《におい》とでもいいたい香《かおり》が其《そ》の辺にすることだった。
(麝香《じゃこう》というのは、こんな匂いじゃないかしら)
 そんな風なことを思いながら、夢をみているような気持だった。
 突然、意識が鮮明になった。朝霧が風に吹きとばされて、あたりが急に明るく晴れてゆくように……。
(こんなものを、頭から被《かぶ》ってたじゃないか)
 私は、真黒い布《ぬの》を、顔からとりのけて、上半身を起した。真黒い布と思ったのは、洋服の上衣《うわぎ》だった。
(そうだ。怪しい男を掴《つかま》えたっけが、彼奴《あいつ》の上衣なのだ!)
 怪《あや》しい香《かおり》も、その上衣から発散することが判ってきた。それにしても、いい匂《にお》いだが、なんという異国情調的《エキゾティック》な香なんだろう。私の手は無意識に伸びて、その上衣のポケットを、まさぐっていた。
(おお、なんだか、入っているぞ!)
 掌《てのひら》に握れるほどの大きさのものだった。出してみた。透《す》かしてみた。そして撫《な》でまわしてみた。何だか壜《びん》のようだ。
 突如! 近くで私の名を呼ぶ声がする。私はムックリ起上った。
 横丁をすりぬけて、飛鳥《ひちょう》のように駈出してゆく人影! やッ、彼奴《あいつ》だ! 彼奴が引返してきたのだ!
 そのあとからバラバラと追ってきたのは、帆村《ほむら》だった。
「元気をだせ! 走れ、早く!」
 と帆村は私の方に投げつけるように叫んで、怪人物の跡を追った。そのあとから、真夜中ながら弥次馬《やじうま》のおしよせてくる気配《けはい》がした。私は弥次馬に追越されたくなかったので、驀地《まっしぐら》に駈けだした。今度は大丈夫走れるぞと思った。
 その鼠のような怪青年は、目にとまらぬ速さで逃げまわった。街燈が黄色い光を斜になげかけている町角をヒョイと曲るたびに、
「ソレあすこだ!」
 と、怪青年の黒影《こくえい》が、ぱッと目に入る
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