だけだった。私達と弥次馬とは、ずっと間隔《かんかく》ができてしまった。そして、いつの間にか、丸《まる》の内《うち》寄《よ》りの、濠《ほり》ちかくまで来ているのに気がついた。
「あッ、しめた。袋小路《ふくろこうじ》へ入ったぞ。彼奴《あいつ》が、ひっかえしてくるところを抑《おさ》えるんだッ」
 帆村の声に、私は最後の五分間的な力走《りきそう》をつづけた。果然《かぜん》その袋小路の入口へきた。
「待て!」
 帆村は、その入口に忍びよると、倒れるように地に匍《は》ってそッと下の方から、袋小路をのぞきこんだ。
 三十秒、四十秒、五十秒、帆村は動かない。
 三分も経《た》ってから、帆村は塵を払って立ちあがった。彼は私の耳許で囁《ささや》いた。
 コートの襟《えり》を立て、巻煙草を口にくわえた酔漢《すいかん》が二人、腕を組みあって、ノッシ、ノッシと、袋小路に紛《まぎ》れこんだ――勿論、帆村と私とだった。
 その袋小路は、ものの五十メートルとなかった。両側に三軒ずつの家があった。右側は、みな仕舞屋《しもたや》ばかりで、すでに戸を締めている。左側は表通りと連続して、古い煉瓦建の三階建があって、カフェをやっているらしく、ほの暗い入口が見える。その奥は、がっちりした和風建築の二階家で、これも戸が閉まっている。この袋小路のつきあたりは、お濠《ほり》だった。
 そんなわけで、起きているのはカフェばかりだった。
 私達は、カフェ・ドラゴンとネオンサインで書かれてある入口を覗《のぞ》いてみた。
「まア、いい御気嫌《ごきげん》ね、ホホッ」
 誰も居ないと思った入口の、造花《ぞうか》の蔭に女がいた。僕は帆村の腕をキュッと握りしめて緊張した。
「君、君ンとこは、まだ飲ませるだろうな」
「モチよ、よってらっしゃい」
「おいきた。友達|甲斐《がい》に、もう一軒だけ、つきあってくんろ、いいかッ」
 帆村が、私の顔の前で、酔払《よっぱら》いらしくグニャリとした手首をふった。私にはその意味がすぐわかったのだった。
 入口へ入ろうとすると、
「おッとっとッ」
 急に帆村は、私の腕をもいで、つかつかとお濠端《ほりばた》まででると、前をまくって、シャーシャー音をたてて小便をした。帆村のやつ、小便にかこつけて、お濠の形勢を窺《うかが》っていることは、私にはよく判った。
 入ってみると、そこは何の変哲《へんてつ》もないカフェだった。広いと思ったのは、表だけで、莫迦《ばか》に奥行《おくゆき》のない家だった。帆村は先登《せんとう》に立って、ノコノコ三階まで上った。各階に客は四五人ずついたが、私達の探している相手らしいものの姿は、どこにも見当らなかった。
「なに召上って?」
 入口にいた女給が、三階までついてきた。
「ビールだ。で、君の名前は?」
「マリ子って、いうわ、どうぞよろしく」
 イートン・クロップのお河童頭《かっぱあたま》がよく似合う子だった。前髪が、切長《きれなが》の涼《すず》しい眼とスレスレのところまで垂《た》れていた。なによりも可愛いのは、その、発育しきらないような頤《あご》だった。
「おいマリちゃん」すかさず帆村が、彼女の名を呼んだ。「ここ、特別室《スペシャル・ルーム》があるんだろう。地下室か、なんかに、そこへ案内しろよ」
「地下室なんて、ないわよ。この三階がスペシャルなんじゃないの、ホホッ」
 と、やりかえして、マリ子は下へ降りていった。
 煙草の箱を探そうと思ってポケットへつきこんだ指先に、カチリと硬い物が当ったので、私は思いだした。
「おい、戦利品《せんりひん》だ」私は、帆村の脇腹《わきっぱら》をつついて置いてから例の男の上衣《うわぎ》から失敬したものを、卓子《テーブル》の下にソッと取り出した。
「なんだか、薬壜《くすりびん》のようだネ」万事《ばんじ》を了解《りょうかい》したらしい様子の帆村が、低声《こごえ》で云った。
「レッテルが貼ってある。ボラギノール」と私は辛《かろ》うじて、薬の名を読んだ。
「ボラギノールって、痔《じ》の薬じゃないか」
 帆村は、謎々《なぞなぞ》の新題《しんだい》にぶつかったような顔付をして、一寸《ちょっと》首を曲げた。
 そこへマリ子がバタバタ階段をあがってくる気配がしたので、私は帆村に、あとを聞いてみる余裕もなく、その薬壜をまた元のポケットに収《しま》いこんだ。


     2


 小石川《こいしかわ》の音羽《おとわ》に近く、鼠坂《ねずみざか》という有名な坂があった。その坂は、音羽の方から、小日向台町《こひなただいまち》の方へ向って、登り坂となっているのであるが、道幅が二メートルほどの至って狭い坂だった。登り口のところではそうでもないが、三丁ほど登ったところで、誰もがこの坂にかかったことを後悔するであろう。それというのが、この名うて
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング