とりだすと、そう云った。
「神田仁太郎という男だネ」そういって、私は、帆村の室にかかっているブコバックの裸体画《らたいが》が、正午ちかい陽光《ようこう》をうけて、眩《まぶ》しそうなのを見た。
「あの袋小路には、カラクリがある」
「どんなカラクリだい」
「そいつは判らん。だが追々《おいおい》わかってくるだろう」
「神田仁太郎のことなら、小石川の、その何というのか心霊実験会《しんれいじっけんかい》みたいなところで訊《き》けばわかりやしないか」
「既にさっき調べてきた」帆村は苦りきって云うのだった。
「無論、住所は二人とも出鱈目《でたらめ》だった」
「あの神田という青年は、なんだって、あんな恰好で銀座裏なんかに現われたのだい。あれは神田氏だけの問題なので、気が変になったとか或いは酔払《よっぱら》っていたとか(ここで私はクスリと忍び笑いをしなければならなかった)そういったことだけなのか。それともあれが、もっと大きな事件の一切断面《いっさいだんめん》だとでも云うのかい」
「もちろん事件だ」帆村は言下《げんか》に答えた。「わるくすると、われわれの想像できないような大事件かも知れない」
「そんなことは、どうして判るのかい」と私は、帆村が迷惑《めいわく》かも知れないと思ったが、率直に尋《たず》ねた。
「それには色々の理由がある」帆村は、やっと気がついたように、一本の紙巻煙草をぬきだして、口にくわえた。「まず、あの怪青年の顔だ。あんなに特徴のある立派な顔は、珍らしいと思う。あれで悄悴《しょうすい》していなかったら、貴人《きじん》の顔だよ。それから例の心霊実験会だ。遂に一語《いちご》も吐《は》かなかった怪青年と落付いて喋《しゃべ》っていた曽我という男との間に、ほのかに感ぜられる特殊の関係、それにあの不思議な実験だ。また銀座裏で怪青年が僕になげつけた言葉は、戦慄《せんりつ》なしに聴くことはできない。何か怖ろしいことが、現《げん》に発生している」
「君は、僕の嗅《か》いだ目の醒《さ》めるような匂《にお》いのことも忘れちゃいないだろうネ」
「うん、あれは僕の想像に、裏書《うらがき》をしてくれるようなものだ」
「ボラギノールの薬壜《くすりびん》は?」
「ボラギノールの薬壜? そいつは僕の眼前《がんぜん》に見えるタッタ一本の縄だ、この一本の縄があるばかりに、僕はたちまち今日から何をなすべきかということを教えられている」
「それで何をしようというのだい」
「明日から当分、午前九時から午後一時まで、君はこの事務所へきて、僕の代りに留守番をしていてくれたまえ」
「それで君は?」
帆村はそれに答えず、煙草に火をつけると、パッパッとうまそうに吸った。
「君はカフェ・ドラゴンの女給がだいぶん、気に入ったようだったネ」帆村は、人の悪そうな笑《わらい》をうかべて、私を揶揄《からか》った。
「ああ、マリ子のことかい」私は、しらばっくれて、云ってやった。「あの子は、この事件に無関係だと思うがネ」
「マリ子のことは、そっとして置いて」と帆村は急に顔面をこわばらせて云った。「あの古煉瓦建《ふるれんがだて》のカフェ・ドラゴンだが今朝起きぬけに、あの濠向うの仁寿《じんじゅ》ビルの屋上へ、測量器械を立てて、望遠鏡で測ってきた」
「ほほう」私は彼の手廻しのよいのに駭《おどろ》かされた。
「だが遺憾《いかん》ながら、昨夜|目測《もくそく》した室の面積に、煉瓦壁《れんがへき》の厚さを加えただけの数値しか、出てこなかった。つまり、隠し部屋があるだろうと思ったが、間違いだった」
私は感歎《かんたん》のあまり、黙って頷《うなず》いた。
「その代り、すばらしい拾いものをした」
「む、なにを拾ったネ」
「カフェ・ドラゴンと、泥船《どろぶね》が沢山|舫《もや》っているお濠との間に、脊の高い日本風の家がある。ところがこの家の二階の屋根にすこし膨《ふく》れたところがある。鳥渡《ちょっと》見《み》たくらいでは別に気がつかないほどの膨らみだ。トランシットでビルディングの上から仔細《しさい》に観察してみると、その膨れた屋根は隣のカフェの煉瓦壁《れんがへき》のところで止っている。僕の眼は、煉瓦壁の上をスルスル匍《は》ってカフェ・ドラゴンの屋根に登っていった。すると其処《そこ》に、大きな煉瓦積の煙突《えんとつ》があるのだ。ところがこの煙突の根元へ焦点《しょうてん》を合《あ》わせてみて判ったことだが、灰色のモルタルの色で、この煙突だけは、つい最近出来たものだということが判った。これは面白いことだ。あの二階家《にかいや》を建てたためにあの煙突ができたと考えることはどうだろう。その次には、二階家につける筈《はず》の煙突を、どうしてとなりにつけたのかと考えてはどうであろうか。さらにもう一つ、日本建の二階家になぜ煙突が入用
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