曽我貞一《そがていいち》です。神田仁太郎《かんだにたろう》を連れてあがりました」
「曽我貞一に、神田仁太郎? そんな名は知らぬぞ」
 男はそのとき何やら早口に云ったのだが、なにか外国語のようでもあり、なんの意味か判らなかった。しかし大竹女史は、喜びの表情をあらわして、答えた。
「わかった。なるほど曽我と神田か」と云ったが、そのあとで急に顔を顰《しか》めて、「わしは胸が苦しくてならん」と云った。
「それは先生」曽我貞一と名乗る男は一寸《ちょっと》云い淀《よど》んだが、「先生は御臨終《ごりんじゅう》の苦しみを続けていらっしゃるのです。目をお醒《さ》ましなさい」
「なに臨終だァ? 莫迦《ばか》をいいなさい生きているものを掴《つかま》えて、臨終とは何ごとかッ」大竹女史は、男のような険《けわ》しい顔付をして叫んだ。
「先生は、もう疾《と》くの昔に死の世界にゆかれました。もう三年も前に亡《な》くなられたのです」
「わしが死んだ? 死んだものが、お前の顔を見たり、こうやってベラベラ喋《しゃべ》られるかい。ハッハッハッ」女史は、目を瞑《と》じたまま後へ反《そ》りかえって笑った。隣の老人が駭《おどろ》いて、女史の身体を後から支《ささ》えたほどだった。
「いえ先生は既に亡くなられました。今日はそれをお教えして、死後の御立命《ごりつめい》をおすすめに来たのです。先生には死んだような気がなさいませんか」
「そういわれると、どうも、腑《ふ》におちないこともあるんだが……」女史は、首をすこし曲げて、何事かを考えている風だった。
「宗先生、試みに、御自分の体を触ってごらんなさい」
 女史は、自分の胸のあたりに両腕を組むようにしてそこらを撫《な》でるのだった。
「わかりますか、先生、胸のところに、乳房《ちぶさ》がありましょう」
「ほほウ、これはおかしい」女史は自分の乳房を着物の上からギュッと握りしめて不審気《いぶかしげ》であった。
「先生は、幅の広い帯をしめて居られる。太腰《ふとごし》のまわり、柔らかい膝、そして先生の頭には、豊かな黒髪がある!」
 曽我貞一の言葉につれて、女史は手を動かして、或《あるい》は腰のまわりに恐ろしそうに触れ、膝を押していたが、最後に両手をあげて、房々《ふさふさ》とした束髪《そくはつ》を抑《おさ》えたときに、
「キャッ」
 と一声《いっせい》喚《わめ》いた。女史は極度に興奮してその場に立ちあがろうとするのを、隣席の老人は笑いながら後から抱きついて止めた。
「呀《あ》ッ、これは女の身体だッ。女の身体だッ。おお、わしの身体を、何処へやった。わしの身体をかえせ!」
 女史は、裾《すそ》の乱《みだ》れるのも気がつかず、われとわが身を、かき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》った。
「先生、合点《がてん》がゆかれましたか」曽我貞一が憎いほど落付いた態度で云った。「先生の身体は、もう亡くなっているのです。それは、先生の霊を生前《せいぜん》の世《よ》へお迎えするために使っている霊媒《メディウム》の御婦人の身体なのです。お判りですか」
「なに、霊媒《メディウム》? これはわしの魂が乗り移っている霊媒の婦人の肉体だというのか。ああ……」女史は頭をかかえて、其の場に俯《うつむ》いた。やがてその下から泣き声が洩《も》れてきた。獣《けだもの》の叫びごえに似た怪しい響をもった泣き声だった。
「ああ、いつの間にか、わしは死んでいた!」
 女史は、慨《なげ》きのあまりか、容易に身が起せないようであった。
「どうです。今日は、その辺で止《や》めておいては……」隣席の老人が、二人に注意した。
 曽我貞一は、連れの神田の興奮に青ざめたような顔をチラリと見たうえで、老人に、止めることを頼んだ。
 老人は、再び大竹女史の前に膝をつくと、何やら呪文《じゅもん》のようなものを唱え、女史の額のへんを二三度、撫でるようにした。
 女史は、元の女らしさに立帰って、静かに上体を起した。そしてケロリとした顔で、一座を眺めると、やや気まり悪そうに、はだけた前をかきあわせたのだった。
 二人の背広男は、このとき丁寧《ていねい》なお辞儀をすると、席を立った。場慣《ばな》れているらしく、始終《しじゅう》ベラベラ喋《しゃべ》った曽我貞一という男、それに反して一語も発しないで、唯《ただ》興奮に青ざめていたような神田仁太郎と呼ばれた若い方の男――帆村はそれをぼんやりと見送っているような顔付をしていたが、その実、彼の全身の神経は、網膜《もうまく》の裏から、機関銃を離れた銃丸《たま》のように、両人目懸けて落下していたのだった。
     *   *   *
「そのときの若い方のが、昨夜、銀座裏で逢った彼《あ》の男なのさ」帆村は、抽出《ひきだし》のなかから新しいホープの紙函《かみばこ》を
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