こ?」
「ほほほほ、ほんとはもう一つ上の十九ですけれど」と、光枝は嘘をついた。
「へえー、お前さん、十九かい。まああきれたわね。わたしゃ十六七とばかり思っていたよ。じゃあもう色気《いろけ》もたっぷりあって――旦那様もなかなか作戦がしっかりしていらっしゃるわね。へえ、そうかい、十九とは……」お紋は、ひとりで感心していた。
「あのう、うちの旦那様の御商売は、なんでいらっしゃいますの」
「ああら、あんたそれを知らないで来たの」
「ええ」
「ずいぶん呑気《のんき》な娘ね。知らなきゃ、いってきかせるが、うちの旦那様はやま[#「やま」に傍点]を持っていらっしゃるのよ」
「え、やま[#「やま」に傍点]? 鉱山《こうざん》のことですの」
「そうそうその鉱山よ。金銀銅鉄|鉛《なまり》石炭、なんでも出るんですって。これは内緒《ないしょ》だけれどね、うちの旦那様は、お若いときダイナマイトと鶴嘴《つるはし》とをもって、日本中の山という山を、あっちへいったりこっちへきたり、真黒になって働いておいでなすったんですとさ。つまり、鉱夫をなすっていらっしゃったのよ。そんなこと、わたしが話したといっちゃいやーよ。わたしゃお前さんが好きだからおしえてあげたんだがね」お紋は、ふふふふと鼻のうえに皺《しわ》をよせて気味のわるい笑い方をした。
(鉱山|成金《なりきん》だったのか?)帆村探偵ときたら、仕事を自分に頼んでおきながら、これから働かせる家の主人公がなにを商売にしているかも教えなかったんだ。お紋がこれだけ喋《しゃべ》れば、もういい。帆村探偵なんか、間抜けの標本みたいなもんだと、光枝はひそかに鼻を高くしたことだった。
だが一体、鉱山業のこの家の主人公と、そして帆村が苦心しつつある探偵事件と、どういう事柄によって繋《つな》がっているのであろうか。それについて光枝はすこしの手懸りも持ち合わせていなかったが、彼女も女探偵のことであるから、この興味ある事実をそのうちにきっと探し当ててみせるぞと、心の中で宣言したことだった。
こうなれば、早い方がよかろうと思って、光枝は帆村から頼まれた大花瓶を、その日の午後、見事にがちゃーんと壊してしまった。なにしろ旦那様の居間は、床が煉瓦で敷いてあったから、下におとせば必ず失敗の虞《おそ》れなく完全に壊れてしまうのだった。もっともその煉瓦のうえには、立派な絨緞《じゅうたん》が敷《し》いてあったが、それは小さくて、本棚の下は煉瓦《れんが》だけがむき出しになっていた。
「あれえ――」光枝は、大花瓶を手から離すときに、もっともらしい声をかけておいた。それから手を離したのであるが、なにしろ大きな花瓶のことであったから、かなり派手な音がして破片はあたりに飛び散り、その一つが彼女の脚に当った。とたんにびりびりと灼《や》きつくような痛味《いたみ》である。
「あっ、怪我をした!」チョコレート色の絹の靴下は、見るも無慙《むざん》に斜に斬れ、その下からあらわに出た白い脛《すね》から、すーっと鮮血《せんけつ》が流れだした。
(あ、困った)そのとき、厠《かわや》の扉が、はげしく鳴りひびき、中から旦那様が、茹蛸《ゆでだこ》のような頭をふりたてて出てきた。
「なんじゃ、なんじゃ。やっ、またギンヤか。なにを壊した。えっ、その棚のうえにあった大花瓶か。うーむ、それは……」とたんに旦那様の顔から血がさっと引いた。
「ううむ。――」と、旦那様は急にそわそわして、壊れた花瓶には目もくれず室内をぐるっと見まわした――が、そこで胸を拳《こぶし》でとんとん叩きながら、
「ああ、おどろいた」と呻《うめ》くようにいった。
そこへ責任者のお紋をはじめ、お手伝いさんの一隊がばらばらと駆けつけた。
「あらまあ、またオギンさんが壊したの。きょうはこれで七つ目よ」
光枝は光枝で、傷口をおさえて、その場に坐りこみ、
「あいたたた」と叫ぶ。旦那様は、光枝の負傷にやっと気がついた。
「おう、えらい怪我をやったな。そりゃ早く手当をせんといかん。ほら、この莨《たばこ》をもんで傷口につけろ。このハンカチでおさえて、そして医者を呼べ」
「あらまあ、オギンさん、怪我をしたの。天罰覿面《てんばつてきめん》よ」
「こら、なにをいっとるか。早くハンカチで結《ゆわ》えてやれ、それからこの壊れ物を早く片づけて――」と、旦那様はいったが、どうしたわけか急にまた周章《あわ》てて、
「おい、皆、早く向うへいけ。片づけるのはあとでいいから、早く向うへいけ」
「はい、はい」といいながら、お紋は光枝の怪我《けが》した脚にハンカチを結きつけようとしているのを見て、旦那様はさらに大きな声で、
「こら、ここで結えなくともいい。ギンヤを早く向うへ担《かつ》いでいけ。こら、早くせんか」
旦那様が目に入れても痛くない筈《はず》のギンヤまで、矢庭《やにわ》に退場を命ぜられるとは、このとき旦那様の胸に往来するよほどの不安があったものらしい。その不安とは?
中間報告
光枝は、かねて帆村との約束で、大花瓶破壊事件の騒ぎが一通りかたづくと、その足でハガキを出しに屋敷を出た。彼女がポストに近づいたとき、ポストの向うから、
「やあ、だいぶん涼《すず》しくなりましたねえ」と声をかけたものがある。もちろんそれは帆村荘六だった。光技は、どぎまぎして、
「あら、まあ先生」と叫んだ。
「さあ早いところ伺いましょう。もう大花瓶を壊したんですか」
「あら、早すぎたかしら」
「そんなことはありません。大いに結構です。ところで貴女は探偵だから分るでしょうが、あの大花瓶を壊されてから主人公は、なにか室内の什器《じゅうき》の配置をかえたということはありませんか」
「あーら、先生は都合のいいときばかり、あたくしを探偵扱いなさるのですね。そんな勝手なことってありませんわ」と、やりかえしたが、心の中ではいよいよ事件の核心にふれてきたんだわと光枝はひそかに胸をどきどきさせた。
「そんなことはどうでもいい。あとで皆一つに固め貴女の抗議をうけることにしましょう。――で、いまの返事は、どうなんですか。まさか貴女は、それについてなんにも気がつかないというわけではありますまい」帆村は、日頃の彼にも似合わず、妙に焦《あせ》り気味になっていた。
「そうですわねえ」と光枝はわざと間のびのした返事をして、帆村がじれるのを楽しみながら、「旦那様のお居間の什器《じゅうき》で、位置の変ったものといえば――」
「なんです、その位置の変ったものは?」
「木彫《きぼり》の日光《にっこう》の陽明門《ようめいもん》の額《がく》が、心持ち曲っていただけです」
「ふむ、やっぱりそうか。その外に変ったものがもう一つあるでしょう」
「いいえ、他にはなんにもありませんわ」
「いや、そんなことはない。きっと有る筈ですよ。それとも貴女の鈍《にぶ》い探偵眼《たんていがん》には映らないのかもしれない」
「まあ、――」と光枝は、むかむかとしたが、
「なんとでもおっしゃい。ですけれど、他にはなんにも変ったものはありませんのよ」
「そんな筈はないんだ。そこが一番大切なところなんだが――ちぇっ、仕方がない」と帆村は無念そうに唇を噛んで、「とにかく壊れた什器は、至急補充します。それから大花瓶は、ちゃんと元のところに置くようにしてくださいね」
「だって大花瓶は、きょう壊してしまったんじゃありませんか」
「だから、至急あとの品を補充するといっているじゃありませんか」
「ああ、また新しい花瓶がくるのですか」
「貴女も案外噂ほどじゃないなあ」
光枝は、それが聞えないふりをして、
「そして先生が持っていらっしゃるの」
「そんなことは、貴女が心配しなくてもいいです」
「先生、それから……」
「頼んだことだけはやってください。もっと気をつけているんですよ。失敬」帆村は、はなはだ不機嫌で、ろくに光枝の言葉を聞こうともせず、向うへいってしまった。
光枝は、妙にさびしい気持をいだいて、お屋敷へかえった。そのさびしい気持は、やがて一種の劣等感と変った。
(果して自分は、帆村のいったように探偵眼が鈍くて、当然旦那様の居間に起っているはずの什器の位置変化に気がつかないのだろうか)
光枝は、旦那様の居間へはいっていった。旦那様は、そこにいらっしゃらなかった。どこにいかれたのであろうか。来客《らいきゃく》かもしれない。機会は今だと思った彼女は、あたりを見まわして、誰もいないことを確《たし》かめると、つと木彫の日光陽明門の額の前に近よった。そもそも、この額一枚が、あの大花瓶の破壊以後に位置の変化をやった唯一の品物なのである。この額に、なにか重大なる意味がひそんでいるのだ。それは一体なんであろうか。
伸びあがって光枝が見ていると、その額はずいぶん大した彫物細工《ほりものざいく》であった。額の奥から、一番前に出ている陽明門の廂《ひさし》まで、奥行《おくゆき》が二寸あまりもあって、極めて繊細な彫《ほり》がなされてあった。これはよくある一枚彫なのであろうが、このように精巧緻密《せいこうちみつ》なものにはじめてお目にかかった。
だが、彫を感心しているばかりでは仕方がない。なにかこの額に関して秘密があるのである。それはなんの秘密であろうか。
「ああ、もしかすると……」そのとき光枝の頭に閃《ひらめ》いたのは、この部厚《ぶあつ》い一枚彫の陽明門が、じつは一枚彫ではなくて、陽明門のあたりだけが、ぽっくり嵌《は》めこみになっているのではあるまいか。そしてそれを外すと、この額が実は一つの箱になっている。つまり秘密の隠し箱である。
「きっと、そうかもしれないわ」光枝はそれをたしかめるために、つと手を額の方に伸ばした。そのとたんであった。彼女の背後にえへんと大きな咳払いが聞えた。
(失敗《しま》った!)と思ったが、もう遅い。あの咳払いは、旦那様だ。
意外なる収穫《しゅうかく》
「ギンヤ、そこでなにをしているのじゃ」
「はい。この額がすこし曲って居りますので」
「なに、曲っていたか。はっはっはっ、曲っていてもいい。そのままにしておけ」
「でも、すぐでございますから」
「いや、手をふれることならん。すこしの曲りを直すつもりで、とたんに下に落されて、額がめちゃめちゃに壊れてしまっては大損じゃからな。わしはもういい加減《かげん》懲《こ》りとるでな」
「どうもすみません」
「なあに、謝まらんでもいい、壊されるのには懲りていながら、あんたに居てもらうというは、そこにソノ……」といっているとき、廊下の向うから、呼ぶ声がしたので、光枝は毒蛇《どくじゃ》の顎《あぎと》をのがれる心地《ここち》して、旦那様の前を退《さが》った。
それから暫《しばら》くして、光枝は、菊の花を一杯生けこんだ大花瓶をもって現れた。そしてそれを本棚の上にそっと置いた。そして電気をつけた。
旦那様は、安楽椅子に寄懸って、もう居睡《いねむり》をしてござった。だがそれは狸寝入《たぬきねいり》らしく、ときどき瞼《まぶた》がぴくぴくと慄《ふる》えて、薄眼があく。もちろん旦那様の視線は、光枝の着物のうえから身体をつきさしている。
「旦那様、御入浴《ごにゅうよく》をどうぞ」
「いや、きょうはわしは、はいらんぞ」
眠っている筈の旦那様が、はっきり返事をした。あの入浴好きの旦那様が、いつになくはいらないとおっしゃる。
光枝は、ははあと思った。
(ああそうだったのか。帆村先生が、もう一ヶ所、位置の変ったものがある筈だとおっしゃったのは、この意味だったか)
――というのは、外でもない。たしかに、或る一つの重要物件が、あの陽明門《ようめいもん》の額から取出されたのだ。そしてこの居間の、他のいずれかの場所に移されたのだ。帆村はその移された場所を光枝に質問したのだ。ところが光枝は、知らないと答えたので、帆村が悲観したのであるが、まさかその重要物件が、陽明門の額から出て、旦那様の懐中《かいちゅう》に移されたとは、さすがの帆村も気がつかなかったのであろう。しかるに光枝は一歩お先に、そのことに気がついた。
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