せん。やっぱり実験してみなくちゃね。さあ、そこへもう一度掛けてください」
光枝は、腹が立つというのか、それとも俄《にわか》に安心をしたというのか、妙な気持で、再び椅子に腰を下ろした。この年齢になるまで――といって彼女はお婆さんだという意味ではない、これはそっと読者に知らすわけだが、風間光枝の本当の年齢は、当年《とうねん》とってやっとまだ二十歳なのである。――とにかく、こんなに愕きの連発をやったことがなかった。彼女は、改めて帆村の顔をぐっと睨みかえした。このまま部屋を出ていってやろうかと思ったほどだが、女探偵ともあろうものがと、どうにかこうにか自分の激情《げきじょう》をおし鎮め、帆村の次なる言葉を待った。
「うむ、僕は満足です。貴女なら、きっとうまくやるだろう」と、帆村はもとの冷い顔になって、しきりにひとりで肯《うなず》いて、
「――さて、貴女に頼みたい仕事のことなんですがね。或るお屋敷で、主人公が小間使《こまづかい》をさがしているのです。尤《もっと》も、前にいた小間使の娘さんは、僕が買収して、親の病気だと申立てて辞《や》めさせたんです。そこで後任《こうにん》の小間使が要《い》るわけだが、ぜひ貴女にいって貰いたいのです」いよいよ帆村は、こうまで彼女に手間どれた重大事件について語りだした。
「ねえ、ようがすか。そのお屋敷は、最近建てたばかりの洋館です。貴女は今もいったとおり小間使だが、こんど主人公の希望に従って、貴女は洋装をしてもらわねばならない。明朗《めいろう》な娘になるのです。いま国策《こくさく》で問題になっているが、これも仕事のうえのことだから、ひとつ思い切って猛烈なパーマネントに髪を縮《ちぢ》らせてください」
光枝は、最初はなにいってるかと思って聞いていたが、聞いているほどに、だんだん興味を覚《おぼ》えてきた。これはなかなか念のいった冒険劇のようである。
「そこで、向うへいって貴女のする仕事だが、もちろん小間使なんだから、インテリくさい顔をしてはいけない。ほら、いまどき銀座通を歩けば、すぐぶつかるような時局柄《じきょくがら》をわきまえない安い西洋菓子のような若い女! あの人たちの表情を見習うんですな。いや、これは女性の前で、ちと失言《しつげん》をしたようだ」
光技は、またむらむらとしてきたものだから、何もいわずにいた。
「いいですか。向うへいったら、気をつけて、物を壊《こわ》すんです。さかんに壊すんです」
「あらまあ、どうしてでしょう」向うへいったら、さかんに物を壊せ、気をつけて物を壊せといわれて、光枝はひどく愕《おどろ》いた。どうも帆村のなすこと云うことは突飛《とっぴ》すぎて、常識ではついていけない気がする。
「コーヒー茶碗《ちゃわん》とか、花瓶《かびん》とか、灰皿とか、スタンドとか、そういったものを、あれっとか、あらっとかいいながら、じゃんじゃん下に墜《お》として壊してください」
「そんなことをすれば、私はすぐ馘《くび》になってしまいますわ」
「なあに大丈夫。貴女なら馘の心配はないから、どしどし壊してください」
「弁償《べんしょう》しなくていいのですか」
「弁償なんか、心配無用です。ただ心懸けておいてもらいたいのは、行ってから二三日以内に、本棚のうえにおいてある青磁色《せいじいろ》の大花瓶《おおかびん》を必ず壊すこと、これはぜひやってください。そしてその翌朝、貴女は自分でハガキを入れにポストまで持って出るんです。いいですか」
「大花瓶を壊すことは分りましたが、翌朝ハガキを投函《とうかん》にいくといって、なんのハガキをもって出るのですか」
「誰あてのでもいいですよ。――それから大事なことは、けっして女探偵だと悟《さと》られないように振舞《ふるま》ってください。ものを壊すにしても、良心にとがめるといったような菩提心《ぼだいしん》を出さないで、こんな壊れ物を扱わせるから壊れるんじゃないの……ぐらいの太々《ふてぶて》しさでやってください。なにしろすこしにぶい小間使らしく振舞ってください」と、帆村は自分の脳天《のうてん》に指をたてた。
「まあ、たいへん骨が折れますのねえ」
「まあ、そういわないで、やってください。主人公が何をいっても何をしても、例のすこしにぶい小間使の要領でいくんですよ」
「そんなことをして、どうしようというんですの。一体どんな事件なんですか。あたしにすこしぐらいお明《あ》かしになったっていいでしょう」
「ううん、それがいけない」と帆村は大きく頭をふり、
「そのように貴女が探偵気どりでいちゃいかんです。あとのことは僕がうまくやるから、貴女はなにも愕かないで筋書どおりやってください。どこまでも、うぶな娘さんのつもりでいてください」
「そして低脳ぶりを発揮《はっき》しろとおっしゃるんでしょう」そういって風間光枝は、横眼をつかって、さも憎《にく》らしげに帆村をじろりと見た。
破壊作業《はかいさぎょう》
その日の夕方、風間光枝はすっかり仕度をととのえ、口入屋《くちいれや》の番頭に化けた帆村に伴われて、問題のお屋敷の裏門をくぐった。
裏門から裏玄関へ。裏玄関といっても、なかなか堂々たるもので、家賃百円を出してもこれくらいの玄関はついていまいと思われる大《たい》した構《かま》えだ。
「ああ大木屋か。たいへん遅《おそ》いもんだから、もう他へ頼んじまった。用はないから、帰れ、帰れ」この家の主人公にちがいない五十を二つ三つも越えた肥満漢《ひまんかん》が、白い麻のゆかたを着て、裏玄関までのこのこ出て来た。よほど暑がり屋と見える。
「へえ、どうも相済《あいす》みませんでございました。じつはこちらさまにきっとお気に入ること大うけあいという上玉《じょうだま》がありましたもんで、それを迎えに行っておりましたような次第《しだい》で――ところがこれが埼玉《さいたま》の在《ざい》でございまして、たいへん手間どれました。ここに控《ひか》えておりますのが、その一件でございまして、在には珍らしい近代的感覚をもちました娘でげして……」
「こら、大木屋。こんどだけは特に大目に見てやるが、この次から容赦《ようしゃ》せんぞ。この次は絶対|出入差止《でいりさしと》めだ。特にこんどだけは――おい、なにをぐずぐずしとる。早くその――ええソノ阿魔《あま》っ児《こ》を上へあげろちゅうに」
旦那様は、たいへんな騒ぎ方であった。
帆村は、わざとなんにもこの旦那様について説明をしなかったが、玄関の段でもって、この旦那様のこれまでの半生《はんせい》がはっきり分ったような気がした。なにかぼろい大仕事をして成上った人物で、教育なんぞはないくせに、尖端的《せんたんてき》文化の乱食者《らんじきしゃ》であることが、絵に描いてあるように、光枝にははっきり見えるのだった。
そこで光枝は、早速《さっそく》その夜から、旦那様づきの小間使として、まめまめしく仕《つか》えることとなった。
「ふふふん」ときおり光枝のうしろで、そういう咳《せき》ばらいとも呻《うな》り声ともつかないものが聞えた。そのようなとき、光枝がふりかえってみると、必ずそこに旦那様のきらきらした眼があって、とたんに旦那様は犬にとびこまれた鶏《とり》のようにばたばたと狼狽《ろうばい》なされるのであった。
旦那様は、非常に無口の方であった。但しこれはあたらしい小間使の光枝に対してだけの話で、その他のお手伝いさんや使用人は、方言まじりの言葉で、こっぴどく叱《しか》りつけられていた。
その夜のうちに、光枝は廊下のうえにコーヒー茶碗をおとして、がちゃんと割った。それが開業式《かいぎょうしき》だった。早速その夜のうちにこの仕事を始めておかなければ、その次の日になってやりだすには、ちとやりにくいだろうと思い、ともかくも一発だけはその夜のうちにやっておくことに決心したからであった。
がちゃんと、たいへんな音がして、コーヒー茶碗の皿がたくさんの小片《こぎれ》に分れて、あたりに飛びちった。茶碗の方は、小憎《こにく》らしくも、把手《とって》が折れたばかりだった。
「な、な、な、なにをしおった?」と、居間から旦那様の叫喚《きょうかん》! つづいて廊下をずしんずしんと旦那様の巨躯《きょく》がこっちへ転がってくる気配がした。反対の方からは、雇人《やといにん》の一隊が、それというので駆けつける。これは茶碗が破《わ》れた音に愕いたというよりも、旦那様の怒声《どせい》に対応して駆けつけたのであった。
「うううう、なんだギンヤがやったのか」
ギンヤ――というのは、銀やと書くべきか銀弥《ぎんや》と書くべきか、よくわからないが、ともかくもこれがこの邸《やしき》における風間光枝の源氏名《げんじな》であった。――旦那様は、呶鳴《どな》りつけるつもりだったらしいが、新任の楚々《そそ》たるモダン小間使のやったことと分ると、くるしそうにえへんえへんと咳《せき》ばらいをして、早々《そうそう》奥へひきあげていった。その代り、他の雇人隊が、口を揃えて光枝の不始末《ふしまつ》を叱りつけ、があがあぶつぶつはいつ果《は》つとも見えなかった。するとまた、奥の方からずしんずしんどんどんと、旦那様の豪快なる跫音《あしおと》が近づき、
「こりゃ、いつまでも騒々しいじゃないか。壊れたものはしようがない。早く片づけて、しずかにしろ。このバルシャガルどもめ!」なにがバルシャガルどもめか、なにしろこの旦那様のいう言葉の中には、時として訳の分らない言葉がとびだす。
とにかく、ギンヤこと風間光枝の什器破壊業《じゅうきはかいぎょう》の店開きは、こうして行われた。
そのとき光枝が感じたことは、物を壊すことは、案外気持のいいことである。もちろん物資愛護《ぶっしあいご》の叫ばれる現下《げんか》の国策に背馳《はいち》する行為ではあったが、しかし光枝の場合は、壊すための理由があった。つまりそれは、帆村探偵から頼まれて、なにかの事件解決のためやっていることゆえ、国策に背馳するものだとはいえない安心があった。すなわち、がちゃーんの音を聞く瞬間、光枝の胸の中に鬱積《うっせき》した不満感といったようなものが、一時的ではあったが、たちまち雲散霧消《うんさんむしょう》してしまうのを感じたことであった。
だが、なにゆえに、什器破壊作業をやらなければならないか、その理由の本体《ほんたい》については光枝は何にも知らなかったし、なんにも思い当ることがなかった。
犠牲《ぎせい》の大花瓶《おおかびん》
小間使ギンヤの什器破壊作業《じゅうきはかいさぎょう》は、その第二日にいたって、俄然《がぜん》猖獗《しょうけつ》を極《きわ》めた。まず起きぬけに、電灯の笠をがちゃーんとやったのを手始めに、勝手元ではうがいのコップを割り、それから旦那様の部屋にいって灰皿を卓子《テーブル》のうえから取り落し(たことにして実は指先でちょいとついたのだった)、たちまち旦那様をベッドの上から下へ顛落《てんらく》させたのだった。
「わーあ、な、な、なにごとじゃ」
「どうもすみませんでございます」
「おお、ギンヤか。なに、灰皿を壊した。朝っぱら大きな音をたてちゃ困るね。わしはこの節《せつ》、心臓がすこし弱っとるんで、物を壊してもなるべくしずかにやってくれ」そういって、旦那様はまたベッドにもぐりこんでしまった。光枝が見ると、旦那様は、壁の方に向き伏して、その大きな肉塊《にくかい》が、早いピッチでうごめいているのを認めた。
「あんた、なんか業病《ごうびょう》があるんじゃない。だって指先に一向力がはいらないじゃないの」責任者のお紋《もん》というのに、光枝はたっぷり皮肉《ひにく》をいわれた。
「病気なんてありませんけれど、あたし、そそっかしいのですわ。これから気をつけます」
「そそっかしいのも、病気の一つだよ。子供じゃあるまいし、十六七にもなって――ちょいとお前さん、年齢《とし》はいくつだっけね、わたしゃ洋装の女の子の年齢がさっぱり分らなくってね」
「あら、いやですわ。あたし、もっと上ですわ」
「じゃあ十八てえと
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