で、矢庭《やにわ》に退場を命ぜられるとは、このとき旦那様の胸に往来するよほどの不安があったものらしい。その不安とは?


   中間報告


 光枝は、かねて帆村との約束で、大花瓶破壊事件の騒ぎが一通りかたづくと、その足でハガキを出しに屋敷を出た。彼女がポストに近づいたとき、ポストの向うから、
「やあ、だいぶん涼《すず》しくなりましたねえ」と声をかけたものがある。もちろんそれは帆村荘六だった。光技は、どぎまぎして、
「あら、まあ先生」と叫んだ。
「さあ早いところ伺いましょう。もう大花瓶を壊したんですか」
「あら、早すぎたかしら」
「そんなことはありません。大いに結構です。ところで貴女は探偵だから分るでしょうが、あの大花瓶を壊されてから主人公は、なにか室内の什器《じゅうき》の配置をかえたということはありませんか」
「あーら、先生は都合のいいときばかり、あたくしを探偵扱いなさるのですね。そんな勝手なことってありませんわ」と、やりかえしたが、心の中ではいよいよ事件の核心にふれてきたんだわと光枝はひそかに胸をどきどきさせた。
「そんなことはどうでもいい。あとで皆一つに固め貴女の抗議をうけることにしましょう。――で、いまの返事は、どうなんですか。まさか貴女は、それについてなんにも気がつかないというわけではありますまい」帆村は、日頃の彼にも似合わず、妙に焦《あせ》り気味になっていた。
「そうですわねえ」と光枝はわざと間のびのした返事をして、帆村がじれるのを楽しみながら、「旦那様のお居間の什器《じゅうき》で、位置の変ったものといえば――」
「なんです、その位置の変ったものは?」
「木彫《きぼり》の日光《にっこう》の陽明門《ようめいもん》の額《がく》が、心持ち曲っていただけです」
「ふむ、やっぱりそうか。その外に変ったものがもう一つあるでしょう」
「いいえ、他にはなんにもありませんわ」
「いや、そんなことはない。きっと有る筈ですよ。それとも貴女の鈍《にぶ》い探偵眼《たんていがん》には映らないのかもしれない」
「まあ、――」と光枝は、むかむかとしたが、
「なんとでもおっしゃい。ですけれど、他にはなんにも変ったものはありませんのよ」
「そんな筈はないんだ。そこが一番大切なところなんだが――ちぇっ、仕方がない」と帆村は無念そうに唇を噛んで、「とにかく壊れた什器は、至急補充します。それから大花瓶は、ちゃんと元のところに置くようにしてくださいね」
「だって大花瓶は、きょう壊してしまったんじゃありませんか」
「だから、至急あとの品を補充するといっているじゃありませんか」
「ああ、また新しい花瓶がくるのですか」
「貴女も案外噂ほどじゃないなあ」
 光枝は、それが聞えないふりをして、
「そして先生が持っていらっしゃるの」
「そんなことは、貴女が心配しなくてもいいです」
「先生、それから……」
「頼んだことだけはやってください。もっと気をつけているんですよ。失敬」帆村は、はなはだ不機嫌で、ろくに光枝の言葉を聞こうともせず、向うへいってしまった。
 光枝は、妙にさびしい気持をいだいて、お屋敷へかえった。そのさびしい気持は、やがて一種の劣等感と変った。
(果して自分は、帆村のいったように探偵眼が鈍くて、当然旦那様の居間に起っているはずの什器の位置変化に気がつかないのだろうか)
 光枝は、旦那様の居間へはいっていった。旦那様は、そこにいらっしゃらなかった。どこにいかれたのであろうか。来客《らいきゃく》かもしれない。機会は今だと思った彼女は、あたりを見まわして、誰もいないことを確《たし》かめると、つと木彫の日光陽明門の額の前に近よった。そもそも、この額一枚が、あの大花瓶の破壊以後に位置の変化をやった唯一の品物なのである。この額に、なにか重大なる意味がひそんでいるのだ。それは一体なんであろうか。
 伸びあがって光枝が見ていると、その額はずいぶん大した彫物細工《ほりものざいく》であった。額の奥から、一番前に出ている陽明門の廂《ひさし》まで、奥行《おくゆき》が二寸あまりもあって、極めて繊細な彫《ほり》がなされてあった。これはよくある一枚彫なのであろうが、このように精巧緻密《せいこうちみつ》なものにはじめてお目にかかった。
 だが、彫を感心しているばかりでは仕方がない。なにかこの額に関して秘密があるのである。それはなんの秘密であろうか。
「ああ、もしかすると……」そのとき光枝の頭に閃《ひらめ》いたのは、この部厚《ぶあつ》い一枚彫の陽明門が、じつは一枚彫ではなくて、陽明門のあたりだけが、ぽっくり嵌《は》めこみになっているのではあるまいか。そしてそれを外すと、この額が実は一つの箱になっている。つまり秘密の隠し箱である。
「きっと、そうかもしれないわ」光枝はそれをたしかめるために、
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