と狼狽《ろうばい》なされるのであった。
 旦那様は、非常に無口の方であった。但しこれはあたらしい小間使の光枝に対してだけの話で、その他のお手伝いさんや使用人は、方言まじりの言葉で、こっぴどく叱《しか》りつけられていた。
 その夜のうちに、光枝は廊下のうえにコーヒー茶碗をおとして、がちゃんと割った。それが開業式《かいぎょうしき》だった。早速その夜のうちにこの仕事を始めておかなければ、その次の日になってやりだすには、ちとやりにくいだろうと思い、ともかくも一発だけはその夜のうちにやっておくことに決心したからであった。
 がちゃんと、たいへんな音がして、コーヒー茶碗の皿がたくさんの小片《こぎれ》に分れて、あたりに飛びちった。茶碗の方は、小憎《こにく》らしくも、把手《とって》が折れたばかりだった。
「な、な、な、なにをしおった?」と、居間から旦那様の叫喚《きょうかん》! つづいて廊下をずしんずしんと旦那様の巨躯《きょく》がこっちへ転がってくる気配がした。反対の方からは、雇人《やといにん》の一隊が、それというので駆けつける。これは茶碗が破《わ》れた音に愕いたというよりも、旦那様の怒声《どせい》に対応して駆けつけたのであった。
「うううう、なんだギンヤがやったのか」
 ギンヤ――というのは、銀やと書くべきか銀弥《ぎんや》と書くべきか、よくわからないが、ともかくもこれがこの邸《やしき》における風間光枝の源氏名《げんじな》であった。――旦那様は、呶鳴《どな》りつけるつもりだったらしいが、新任の楚々《そそ》たるモダン小間使のやったことと分ると、くるしそうにえへんえへんと咳《せき》ばらいをして、早々《そうそう》奥へひきあげていった。その代り、他の雇人隊が、口を揃えて光枝の不始末《ふしまつ》を叱りつけ、があがあぶつぶつはいつ果《は》つとも見えなかった。するとまた、奥の方からずしんずしんどんどんと、旦那様の豪快なる跫音《あしおと》が近づき、
「こりゃ、いつまでも騒々しいじゃないか。壊れたものはしようがない。早く片づけて、しずかにしろ。このバルシャガルどもめ!」なにがバルシャガルどもめか、なにしろこの旦那様のいう言葉の中には、時として訳の分らない言葉がとびだす。
 とにかく、ギンヤこと風間光枝の什器破壊業《じゅうきはかいぎょう》の店開きは、こうして行われた。
 そのとき光枝が感じたことは、物を壊すことは、案外気持のいいことである。もちろん物資愛護《ぶっしあいご》の叫ばれる現下《げんか》の国策に背馳《はいち》する行為ではあったが、しかし光枝の場合は、壊すための理由があった。つまりそれは、帆村探偵から頼まれて、なにかの事件解決のためやっていることゆえ、国策に背馳するものだとはいえない安心があった。すなわち、がちゃーんの音を聞く瞬間、光枝の胸の中に鬱積《うっせき》した不満感といったようなものが、一時的ではあったが、たちまち雲散霧消《うんさんむしょう》してしまうのを感じたことであった。
 だが、なにゆえに、什器破壊作業をやらなければならないか、その理由の本体《ほんたい》については光枝は何にも知らなかったし、なんにも思い当ることがなかった。


   犠牲《ぎせい》の大花瓶《おおかびん》


 小間使ギンヤの什器破壊作業《じゅうきはかいさぎょう》は、その第二日にいたって、俄然《がぜん》猖獗《しょうけつ》を極《きわ》めた。まず起きぬけに、電灯の笠をがちゃーんとやったのを手始めに、勝手元ではうがいのコップを割り、それから旦那様の部屋にいって灰皿を卓子《テーブル》のうえから取り落し(たことにして実は指先でちょいとついたのだった)、たちまち旦那様をベッドの上から下へ顛落《てんらく》させたのだった。
「わーあ、な、な、なにごとじゃ」
「どうもすみませんでございます」
「おお、ギンヤか。なに、灰皿を壊した。朝っぱら大きな音をたてちゃ困るね。わしはこの節《せつ》、心臓がすこし弱っとるんで、物を壊してもなるべくしずかにやってくれ」そういって、旦那様はまたベッドにもぐりこんでしまった。光枝が見ると、旦那様は、壁の方に向き伏して、その大きな肉塊《にくかい》が、早いピッチでうごめいているのを認めた。
「あんた、なんか業病《ごうびょう》があるんじゃない。だって指先に一向力がはいらないじゃないの」責任者のお紋《もん》というのに、光枝はたっぷり皮肉《ひにく》をいわれた。
「病気なんてありませんけれど、あたし、そそっかしいのですわ。これから気をつけます」
「そそっかしいのも、病気の一つだよ。子供じゃあるまいし、十六七にもなって――ちょいとお前さん、年齢《とし》はいくつだっけね、わたしゃ洋装の女の子の年齢がさっぱり分らなくってね」
「あら、いやですわ。あたし、もっと上ですわ」
「じゃあ十八てえと
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング